〜和解に向けて〜10月17日午後、バンクーバー・ユニタリアン教会で、アジア太平洋地域における第二次世界大戦の終結70周年を記念する講演会が開催された。 講師の琉球大学名誉教授・高嶋伸欣(のぶよし)氏は、40年以上にわたり東南アジアの国々を訪れ、現地の人々から戦争の記憶を聞く調査を行ってきた。 「何があったのかを日本の若い人々に、もっと話すことが必要」。高嶋氏はこのように、日系のみならず中国・韓国系も含めた100人を超す会場に向かって語った。

 

 

高嶋伸欣氏

  

■講演会開催の理由  

この講演会開催のいきさつについて、『バンクーバー9条の会』のメンバー、落合栄一郎氏はこう説明した。

 「今年は『バンクーバー9条の会』の創立10周年に当たります。終戦70周年でもあり、それにふさわしい記念行事をと、当会の有志9人が実行委員会を作り、この5月から企画を進めてきました。日本が太平洋戦争まで突き進んでしまった背景や、東南アジアでの日本軍の行為などについて勉強会を開いていることもあり、このような内容について実際に現地に行って調べている方から話を聞いてみたいということになりました」

 そこで、第二次世界大戦中、東南アジアで日本軍が現地の人々に対して起こした事件などの調査を行っている高嶋伸欣氏を招くことになった。

 講演会は冒頭、落合氏が実行委員会からの挨拶の言葉を述べた。司会はWomen Transforming Cities代表で、元バンクーバー市会議員のエレン・ウッズワース氏。カナダ先住民マスキアム族のオードリー・シーグル氏が歓迎の歌を捧げ、その後、ウッズワース氏より紹介された高嶋氏が登壇した。以下は、高嶋氏による講演の一部である。

■調査の目的と継続

 高嶋氏は「私の父は104年前の1911年、スティーブストン日本語学校の初代校長として10年間勤めました。その歴史を確かめたいということが今回バンクーバーを訪れることになった最初の動機です」と話を始めた。個人的な理由で当地を訪ねたいと思っていたところに、高嶋氏が長年行っている調査について、『バンクーバー9条の会』から講演の依頼があった。

 調査の主な内容は、第二次世界大戦中、日本軍が東南アジアの国々で中国系をはじめとする人々を殺害した事実を掘り起こすこと。

 高校の社会科教員であった高嶋氏が一人で始めた現地の調査では、「なぜ日本人がここに来たのか」と疑われ、石を投げられたり襲われそうになったこともあった。「日本の若い人々に教科書を通して事実を知ってもらいたい。そのための調査である」と、高嶋氏は粘り強く説明を繰り返した。すると「日本人でもこういう人がいる」と守ってくれたり、情報の収集に協力してくれる地元の人さえでてきた。日本では、同じ考えの教員たちが調査旅行に参加するようになった。  

■アジアの国々での記憶

 会場のスクリーンに、2種類の中国語新聞の記事が映し出された。一つは、1999年3月、マレーシアでのもの。記事は、同国の人々に戦中のつらい歴史を連想させる日の丸、昭和天皇・皇后、靖国神社の写真を載せ、これらが日本では終戦後も撤回されず受け入れられていると指摘。

 もう一つは、同90年、シンガポールでのもの。リー・クアンユー元首相が、日本は戦後生まれの世代が政権を握るようになれば、軍事大国になるだろうと予想している。高嶋氏は、「現在、日本ではその兆しが起こってきている」と言う。

 高嶋氏が調査のため、初めてマレーシアを訪れたのは1975年。しかし、90年代に至っても、2種類の新聞に見られるように、かつての日本の軍国主義を忘れず、その継続に警鐘を唱えるアジアの国々の厳しい姿勢があった。高嶋氏は「戦中の日本軍侵略に伴う現地人の虐殺の事実について、正確に調べなければならない」と改めて感じた。しかし「この取り組みは、現日本政権に対決する動きになる」。そのため、右翼団体などからさまざまな妨害を受けた。その一方、高嶋氏の取り組みに賛同し協力する人々も増え、調査は着実に続けられた。

■歴史の掘り起こし

 アジア太平洋戦争は、1941年12月8日、シンガポール侵攻のためマレー半島東北部のコタバルに上陸する日本軍と、それを阻止しようとするイギリス軍との衝突から始まった。真珠湾攻撃より1時間以上前のことであった。この事実を、現在、日本ではほとんどの歴史家が認めている。しかし日本政府や多くのメディアではいまだに、真珠湾攻撃が太平洋戦争の始まりと説明している。「それはこの戦争が、マレー半島の鉄鉱石やスマトラ島の石油などの資源を獲得するための侵略戦争であったことを、一般の人々が気付きにくいようにするためではないか」と高嶋氏。

 そこで、教科書執筆者らに資料を見せ、事実を書くようにと要請してきた。その結果、日本の中学や高校の歴史教科書では、アジア太平洋戦争がマレー半島コタバルから始まったことが記載されるようになってきた。「このように変わるのに30年かかった」と高嶋氏は振り返る。しかし「大部分のメディアや一般国民の間には、アジア太平洋戦争の開始は真珠湾攻撃からという歴史修正主義が今も残っている」。 

■公式記録の発見

 大戦中に東南アジアで起こった細かい事実を教科書に反映していくには、記録の発見ということが重要な鍵となる。その一つに、日本軍の公式記録がある。

 マレー半島内陸部のネグリセンビラン州スンガイルイでは、日本軍に逆らうと思われる中国系住民は老若男女かまわず殺戮(敵性華僑狩り)することを命じる日本軍の記録が残っていた。敗戦とともに焼却されるはずであったが、この記録は処分されないままであった。それを米国軍が接収。具体的な殺戮人数や、日本が批准したハーグ陸戦協定(戦争に関する定義・規定)に反する行為があったことを裏付けている。

 中国でも同じようなことが起こっていた。その一つが南京での中国兵に対する無差別虐殺である。発生の事実は、日本兵の日記や証言で分かっているものの、日本ではこの事件に対する軍事裁判がなかったので正式記録が残っていない。そのため、殺害に関する正確な数字や内容が不明で、これをめぐり日中間で半世紀以上にわたり論争が続いている。   

■協力の成果

 手さぐりで始めた調査は、1990年代、急速に進展した。高嶋氏は同92年、それまでの調査の結果を本にまとめた。その中に含めたマレーシアでの日本軍による殺戮の犠牲者追悼碑の30カ所の所在図を現地の人々に見せた。すると「地元のことは知っていたが、他にもこんなにあったのか」と皆が驚いた。

 また、同国の若いジャーナリストらは「本来、我々がこのような調査を行うべきではなかったのか。まだ調査ができていない場所は自分たちで」と言い、実際に調査を始めた。その結果を含め、現在までに72カ所で追悼碑が確認された。

 「調査結果は、広く報告するようにしてきた」と高嶋氏。そうすることにより、歴史教科書の執筆者がその事実を取り入れ、さらに文部科学省での教科書検定でも認められるようになった。このようにして「歴史教科書では、ある程度の歴史修正主義が改善されてきた」。

■和解に向けての歩み

 先に述べたマレーシアのスンガイルイでの殺戮事件で、日本軍は住民を広場に集め、マレー系と中国系を分け、中国系の368人を機関銃で掃射した。その前日、日本軍が使っていたマレー人のスパイを中国系抗日ゲリラに殺された報復、ということであった。これはマレー系と中国系を分断しようとする日本軍の作戦でもあった。

 1984年、この事件の犠牲者の遺骨をまとめて埋葬した墓がスンガイルイのジャングルで発見された。そこは同国がマレー系住民に払い下げをした土地であった。そこへ中国系の人々が続々と墓参りにくるようになった。もともと葛藤を抱えていた両民族の間では、紛争も起こりかねない状況になった。しかし、埋葬ということへの民族を超えた理解のもと、マレー系ではこの土地を中国系の人々に譲ることにした。その墓地周辺の整備に、高嶋氏らは日本国内で募金を行い、42万円を寄付。このような援助もあり、現在は美しく整えられた墓地の写真が会場のスクリーンに映し出された。高嶋氏は「民族間対立のしこりが残っている事件の犠牲者の墓をめぐって、和解が実現したことでも意味がある」と語る。

 この殺戮を指揮した日本軍部隊の隊長は、戦後、戦犯として裁判にかけられ死刑となった。しかし、この隊長の甥が「伯父の戦争責任について忘れることはできない。被害者の家族に会いたい」という思いで3年前、高嶋氏が主催するツアーに加わり現地に赴いた。「どんな仕打ちにあうだろうか」と心配したが、スンガイルイの人々からは「ここに来るには勇気が必要だったろうに。よく来てくれた」と喜びの声をかけられた。そこで今年は、妻と息子を伴い家族揃って再び高嶋氏のツアーに加わり、現地訪問を果たした。 

■教科書裁判

 教科書の執筆者であった高嶋氏は、長年の調査の結果を日本の中高生の歴史教科書に盛り込もうとした。しかし、1993年の教科書検定では認められず、原稿は撤回となった。そこで高嶋氏は日本政府を相手に裁判に訴えた。95年、一審では勝訴。これに対し被告の国が抗告。同年の二審と、2005年の最高裁では高嶋氏側の敗訴となった。 

 高嶋氏は「歴史修正主義の根底には、日本の軍国主義の存続がある」と言う。「アジアの人々はこの問題に敏感。北米やヨーロッパではどうでしょうか。これからも意見を出し合ってほしい」と会場に呼びかけ、講演を結んだ。

 

 講演終了後、サイモンフレーザー大学名誉教授シュー・タック・ワン氏と、ビクトリア大学教授ジョン・プライス氏からのコメント、質疑応答の時間が設けられた。最後に舞台にあがったアーガイル・セカンダリースクールの生徒たちによる合唱は、戦争による多くの傷跡を癒そうとするかのように優しく会場に流れ、出席者を和ませた。  

(取材 高橋百合)

 

高嶋伸欣氏プロフィール

日本で高校社会科教員としての経験を生かし、教科書執筆や、教員養成に取り組んできた。同時に40年以上、戦争の傷跡を学ぶマレーシアやシンガポールの旅を主催。日本軍占領時代(1941年12月から1945年8月まで)の歴史や、戦争の記憶の調査・研究を行ってきた。『80年代の教科書問題』『旅しよう東南アジアへ』『マラヤの日本軍 ネグリセンビラン州における華人虐殺』など著書多数。ご尊父は、スティーブストン日本語学校の初代校長・高島信太郎氏。(パスポートでは、「高嶋」ではなく、「高島」)

 

 

挨拶の言葉を述べる落合栄一郎氏

  

 

司会のエレン・ウッズワース氏

  

 

講演中の高嶋伸欣氏

  

 

歓迎の歌を披露するオードリー・シーグル氏

  

  

*編集部注 この記事は10月17日、バンクーバー・ユニタリアン教会で行われた高嶋伸欣氏の講演を収録、取材したもので、バンクーバー新報社の意見を反映したものではありません。 

 

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