『二つの歩み』〜日本外交と日系人の遺産〜

 

昨年、在バンクーバー日本国総領事館は、開館125周年を記念して当地日系人の歴史と日本外交の関わりをたどる6回の講演会を開催した。その総括が3月28日、バンクーバー日本語学校並びに日系人会館で、同校の創立と時代背景をテーマに開催された。講師を務めた在バンクーバー日本国総領事岡田誠司氏と水田治司氏と共に、会場の約40人が当時を振り返った。

 

 

岡田誠司総領事(右)と水田治司氏

  

バンクーバー日本語学校、創立と背景

昨年の講演準備

 まず岡田誠司総領事が、昨年の講演シリーズ開催にあたっての準備について説明した。

 「日系社会の歴史に関して多くの本があるが、外務省外交史料館にも在バンクーバー総領事館と外務本省との間のたくさんの公文書が保存してある。これらを読むと、総領事館が時々の歴史の事象でどのような対応を行っていたのかが非常によく分かる」。

 日系社会の歴史と日本政府の関わり。これら二つを考え合わせる作業を、昨年一年をかけ行った。その中では触れなかったバンクーバー日本語学校創立期の事情とその歴史的背景が、今回の講演の焦点となった。

バンクーバー日本語学校創立まで

 19世紀後半に始まったバンクーバーへの日系移民は、男性の出稼ぎが中心であった。そのため、日系社会は家族では構成されていなかった。しかし、女性の移民が始まり、次第に家庭ができ、子供が増えてきた。1898年当時、就学年齢の子供が20数名いたと記録されている。英語が話せずカナダの学校には入れなかった子供たちの教育に、私塾が作られた。日本から来た牧師の鏑木五郎は、設備も教師も整っていない状況を見て、教会で日本語などを教えた。

 その後、日系人の代表らがバンクーバー領事館に学校を作りたいと相談。この背景には、中国人や日本人などの東洋系はカナダの公立学校には入れないという隔離政策があった。そこで1902年、定員制の私立「日英学院」が設けられた。

 1906年1月12日には、「共立日本国民学校」が創立される。現在のバンクーバー日本語学校の始まりであった。

 

 

講演中の岡田誠司総領事

 

講演中の水田治司氏

 

人頭税と杉村領事の働き

日系社会の状況

 1889年6月17日、バンクーバー初代領事に就いた杉村濬(ふかし)は、さっそく日本政府に領事館開館の電報を送っている。バンクーバーから発信された最初の公文書である。着任したこと、市長へ信任状を提出したこと、アメリカ領事館の仲介であったことなどを報告している。

 このころ、バンクーバーには3千人ほどの中国人がいた。日本人は200人ぐらいであった。杉村領事は、日本人の生活レベルは中国人にはるかに及ばず、非常に貧しい状況だと伝えている。

 これは、初期の日系移民は、新天地を求めてやって来た農家の次男や三男などで、彼らは十分な教育、資金、技術などを持っていなかった。そのため当地での生活は、極めて難しかったことが想像できる。

日本人への人頭税法案の阻止

 1850年頃から、カナダに入ってきた中国人には人頭税が課せられていた。

 杉村領事が腐心したのは、日本人への人頭税回避であった。同領事は日本政府を代弁して州政府と掛け合い、結局この法案を阻止した。この成功には、次のような要因も働いていた。

 1902年、日本とイギリスは「日英同盟」を締結。遡り1894年に結ばれた「日英通商航海条約」には、イギリスと日本の権利義務関係が対等であることが謳われていた。当然、この同盟や条約は、イギリス連邦に属するカナダの政策方針にも反映される。このため、カナダ連邦政府は、BC州政府が制定しようとした、日本人に対する人頭税など差別的な法案を否決していった。

 

 

バンクーバー初代領事の杉村濬

 

杉村濬領事によるバンクーバー発の公文書第一号

 

アジア人排斥暴動と森川領事の働き

暴動が起こった背景

 1907年、アジア人排斥暴動が起こった当時の領事は森川季四郎であった。森川領事は、その数年前から、日本人に対する差別や排斥があることに気付いていた。一方、BC州民は、BC州政府の移民制限などに関する法案が、連邦政府によりことごとく否決されることに不満を高めていた。このような不穏な雰囲気を、森川領事は日本政府に報告している。

 同じ頃、アメリカでも日系移民が増加。同国ではハワイの日系移民に対し、本土への移動を禁止する。すると、これらの日系人が大挙バンクーバーやモントリオールへ入ってきた。

 岡田総領事は、「アジア人排斥暴動は、民族問題もあるが、むしろ急増した日系人とBC州民との間の経済的摩擦が原因だったのではないか」と言う。

カナダ社会に 溶け込む努力

 民族問題に関し、初代の杉村領事は、日本政府に次のような報告をしていた。

 「中国人がカナダ社会から排斥される理由の一つは、働いて得た金をカナダで使わず、中国へ送ることにある。日本人の移民政策を推進するには、そのような弊害を排除しなければならない」。

 さらに同領事は、移民斡旋会社の設立を提案する。その結果、斡旋会社が都道府県別に組織された。それらは後年、県人会へと発展した。

 杉村領事は当地の日系人に対しても、英語を勉強すること、カナダ社会に溶け込むこと、教会に行くこと、カナダ国内での消費などを奨励した。

暴動への対応と諸問題解決への努力

 バンクーバーでのアジア人排斥集会やデモを目の当たりにする森川領事は、日系人に対し、落ち着いた行動と暴力の自重を説得。警察へは、日本人街での警備を要請した。

 1908年、日系移民とカナダ人との間の緊迫を緩和するため、日加間で「ルミュー協定」が結ばれた。これは、日本政府が年間の移民数を400人に制限する努力をするという紳士協定であった。

 また、日系への漁業権削減問題の相談を持ちかけられたバンクーバー領事館は、日本国籍ならびにカナダ国籍を有する日系漁師、それぞれの立場に分けてカナダ政府に是正を求めた。協議、さらには法廷での審理・裁判を経て、日系漁師側の勝訴となった。

 岡田総領事は、「温故知新」という言葉を挙げながら、「大きな国際政治力学の中でさまざまな外交政策が作られ、それが税やビザなどの点で個々人に影響してくる。過去の事実から学ばなければならない。そのためにも歴史を伝えていくことが大切」と述べ、講演を結んだ。

 

日本語教育を通して遺していくもの

バンクーバー日本語学校の役割

 岡田総領事に続き、バンクーバー日本語学校並びに日系人会館理事長の水田治司氏が、総理大臣を務めた斎藤実の直筆による「温故知新」の額を紹介しながら話を始めた。

 1906年、バンクーバーでの国民学校設立は、当地を訪れた外務大臣の小村寿太郎が、150ドル(当時)を供与。時の森川領事へ進言したことによるものだった。その後、バンクーバー領事が学校の監督・顧問となった。領事館は周辺48校の日本語学校とも関わり、日本政府の教育方針や意向を伝えた。バンクーバー日本語学校には、明治天皇の「教育勅語」が今も保存されている。水田氏は、日本語の勅語とその英訳が収まった額を披露した。

 同校には、海軍大将であった東郷平八郎が書いた額、他にも貴重な史料が残っている。水田氏は、「学校の図書館や博物館を整備し、今後も大切に保存していきたい。日本語教育に生かしていきたい」と語った。

日本語を通して 伝えたいこと

 水田氏は、「領事館とバンクーバー日本語学校とは、戦前・戦後も緊密な関係にあった。戦後、日本経済の急成長時、日本の商社のオフィスが増えるにつれ少し疎遠になった時期もあるが、最近は以前にも増して種々ご協力いただいている。これからも良好な関係を続けていきたい」と言う。

 学校の将来への展望としては、「日本語を学ぶこと、教えることを通し、日本文化の紹介に繋がるよう歩んでいきたい」とのこと。そして、水田氏自身の人生を振り返り、さらにこう語った。

 「カナダに来て初めて日本人としての自覚ができ、日本の良さ・強さがよく分かった。カナダの人々に、日本の良いところを誇りを持って伝えたい」。

 

 

バンクーバー日本語学校に保存されている日英併記の「教育勅語」

 

バンクーバー日本語学校に保存されている斎藤実総理大臣の直筆による「温故知新」の額

 

質疑応答

 岡田総領事と水田氏の講演後、参加者との質疑応答となった。質問の一つである当時の日系人の職種に関して、岡田総領事は、食と住が確保できた製材所、日雇い、毛皮用のラッコ猟の労働などを説明。水田氏は、戦後、男性は庭師、女性は家政婦になるものが多かったと付け加え、「日本人は、勤勉で正直であったので、雇い主からは家族の一員として扱われていた。親善大使のようなもの。日系人として誇りに思える」と語った。

 二人の講演者の興味深く含蓄ある話に、参加者は終了時間を過ぎても、熱心に耳を傾ける有意義な時間であった。

(取材 高橋百合)

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