舞踏家・麿赤兒
先月、バンクーバーで28年ぶりのカナダ公演を成功におさめた舞踏集団「大駱駝艦(だいらくだかん)」を率いる、舞踏家・麿赤兒(まろあかじ)氏。 実力派俳優として、映画「キル・ビルVol.1(クエンティン・タランティーノ監督)」や、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」など数々のドラマなどでも活躍している。 舞踏家として日本の前衛芸術「舞踏」を牽引してきた麿氏に話を聞いた。
インタビュー時の舞踏家・麿赤兒氏
舞踏家・麿赤兒(まろあかじ)氏は、大駱駝艦の黒いスタジアムコートを羽織って劇場の裏口にいた。
身長は170cm近いが、すっと伸びた背筋のせいか更に大きく見える。
いかつい役柄のイメージがあるが、薄いサングラスを通して見える眼差しがとても柔らかい。
前夜バンクーバーに到着したばかりだったが、午前中ガスタウンを散策したあとリハーサルという精力的な日程だ。麿氏は、1943年生まれ、72歳。1998年には胃がんを克服した。
第一線で 「舞踏」を踊り続ける麿氏、どのようにしてその体は作られるのか。
「鍛えてるって言われると恥ずかしいんだよなぁ、空気相手に汗流してる感じですよ」。 麿氏は、野口体操(注1)を基にした独自のエクササイズを取り入れている。
「抵抗が無いと思っている空気がだんだん重くなってくるんです。ジムで重いものを持ち上げたりという鍛え方ではない鍛え方ですね。一つのイメージみたいなものを持つ。例えば『体は吊られてる』と思うだけで、屈伸を10回するのはしんどいけれど1 ・5倍くらいはプラスの力が出るんです」。
麿氏は舞踏家・土方巽(ひじかたたつみ)氏に師事しながら、1964年劇作家・唐十郎(からじゅうろう)氏と共に劇団「状況劇場」設立に参画した。
1960年代の東京は様々な才能がひしめいていた。血気盛んな若者たちが集まると街では様々なことが起こった。当時劇団「天井桟敷」を主宰していた劇作家・寺山修司氏が、状況劇場の新宿のテント興行に「ユーモアのつもり」で葬式用の花輪をおくったことをめぐり警察沙汰となり、30人近くの両劇団員が留置場に入れられる騒ぎとなったなど、逸話には枚挙に暇がない。
「敵とは言ってたけど同じ芝居をやっている仲間、留置場で仲良くなった場合もあるし、楽しい時代でしたね」。
そうした時を経て「大駱駝艦」を1972年に旗揚げ。古典・現代舞踊とは一線を画する、土方氏が確立した「舞踏」を継承し発展させた。若手を育成して独立を促す「一人一派」を掲げて山海塾など舞踏集団を多く輩出し、今年で43年目と続く舞踏の老舗となっている。
「育てるっていうつもりもなく『一緒に遊ぼう』というのが本当の心情でね。こんなの見つけたぞと、『体の動きを発見する』ということも、いろいろやりますよ」と、『色即是空(しきそくぜくう)』と名付けたエクササイズを紹介してくれた。
「簡単に言うと、体を入れ替えちゃおうという話なんですよ。僕らの体っていうのは、実体だと思ってる。それを反対にしてしまって、これは空っぽで、こちらの何も無い空間が実体で我々を形作っていると。それを入れ替えてみよう。そこには何も無いんだと。何も無いところに色々入ってくるという。それは水であったり、何が入ってくるか分からない。その時にイメージ力ということで。空っぽの容器の中に何を入れようか、あとはまた出しちゃおうとか。そういう繰り返しのエクササイズの一つですね」。
麿氏は、体は「容れ物」だと思っている。例えば人間は空気を吸うとき、いい空気悪い空気を選んで吸う訳ではなくどんどん取り込んでいく。長い時間をかけてネガティブな物も含めていろんなものを吸収して形作られる、人間そのものが作品じゃないかという。
それは麿氏が掲げる「この世に生まれ入ったことこそ大いなる才能とす」という『天賦典式(テンプテンシキ)』にも表れている。
「基本的には、『人間の存在全肯定!』みたいなことなんですけど。意味は何ですか、と聞かれたら『テンプテーション(誘惑)』だろうと言ったりね。ハッハッハ」。
麿氏はそうした言葉遊びを大切にしている。
ダジャレなどの言葉遊びをすると、言葉は頭の中で活性化する。変遷する言葉を楽しんでいくことが体に関わってくる。言葉が体にどう作用するかということに関心があるという。
舞踏の代名詞にもなっている「白塗り」(ボディペインティング)について聞くと、「なんでそういうことをするかといえば、儀式性みたいなものを求めているということはありますね。何かちょっと不思議な作用を及ぼすっていうのかな。自分にもそうですし、人、他者との関わりにおいても不思議な作用を及ぼします」。
またツン(ふんどしのような衣装)のエピソードも。
「あれはもともとは、パンツの反対ですよ。ツンパ。業界用語ですよ」。
昔は麿氏も資金稼ぎに、諸先輩と共にキャバレーなどで「金粉ショー」をしたという。その際一番シンプルに装飾なく、と考えだしたのがこのスタイル。
現在も大駱駝艦には「ゴールデンズ」という金粉ショーのユニットがあり各地で公演をしている。
時代と共にキャバレーはほとんど閉店したが、最近では街おこしの一環として日本各地で「大道芸祭」が催され大道芸が復活してきているそうだ。大駱駝艦は1982年から海外公演を重ね、ストリートパフォーマンスのエンターテイメント性も熟知している。
「それでうちが老舗みたいになっちゃってオファーがあるんです」。
今回公演した「ムシノホシ」は、4億年前から存在する「ムシ」から着想した。
観察してみると、蟻塚を作る蟻と巨大なビルを作る人間と、社会性など似たところが多いと気付いたという。
環境に適応してきたムシに対し環境を変える事によって発展してきた人間。
「我々は昆虫より偉いといつの間にか思い込んでいるけど、昆虫の方が偉いんじゃないの?」。
本作では、「ムシ」を宇宙からのメッセージを受け止める存在として捉え、傲慢(ごうまん)な人間の行いに警鐘を鳴らす。
大駱駝艦を率いて世界各国のダンスフェスティバルに参加し高い評価を得続ける麿氏。舞踏評論家協会賞、2006年文化庁長官表彰など受賞も多い。6日間のバンクーバー滞在で2公演をこなし、日本にとんぼ返りで5月末からはフランスでの公演が待っている。
舞踏を世界中に広めたい、と表現の欲望は尽きないという。
「ネタは色々かき集めていっぱいあるんですけどね。踊りをいっぱい作り続けるしかないんです。あとは、若い人がどんな踊りを作っていくかっていうのも楽しみですね」。
舞台で履いていた、永遠に踊り続ける「赤い靴」が象徴的だった。
「どんどん踊り続けるしかない。体が一番語っているんです」。
(注1)野口体操:野口三千三(1914―1998)東京芸術大学名誉教授が創始。自分自身のからだの動きを手がかりとして、自分も含めて誰も気付いていない無限の可能性を見つけて育てるというもので、1960〜70年代、教育・哲学・芸術関係者を中心に浸透した。(公式サイトより)
大駱駝艦「ムシノホシ」 (3月20日 バンクーバープレイハウス公演)
舞台には100本以上の鉄パイプが天井から揺れるように吊るされている。それらは5つの檻(虫籠)のような形を作っている。
無音の舞台で21人の普段着の人々が、中央の檻を囲むように円を描いて一定のリズムで進みながら、一人ずつ感情を露呈する。日々の生活の中でもがく個々の葛藤を見せつけられる。
電子音と和楽器を駆使した音楽が加わり、22人の踊り手が、やかんをかぶったムシ、白いドレスの少女、虫の俳句を詠む松尾芭蕉(村松卓矢氏)、変態するムシ(麿氏)、惑わすムシ(我妻恵美子氏)など寓話的な存在として次々に登場する。檻に閉じ込められたり逃げだしたり、支配と隷属の関係性が逆転しながら繰り返される。
絶妙な照明で、鉄パイプは、街、森、光りの柱と様々に表情を変える。白塗りに映える色や素材を駆使した、創意溢れる堂本教子氏の衣裳も必見だ。
少女(幼虫)から怪物(成虫)に変態する麿氏の体躯まで変わったかのような迫真の舞踏と、村松、我妻両氏の実力派舞踏家が対峙するシーンは圧巻。
ムシと人間の攻防の果ての光景は、人間の厳しい将来を暗示しつつ一種のカタルシスを感じさせる。
それぞれの踊り手の個性が光る。時には滑稽に、時には観客の想像を超える奇態で感情を表す表現のバトルは、大駱駝艦ここにありと言った感。難解と思われがちな舞踏だが、リズム感ある構成はエンターテイメント性も高く体感して楽しめる作品。バンクーバーの観客はスタンディングオベーションで喝采した。
Play houseで行われた公演「ムシノホシ」(写真撮影:Yukiko Onley)
Play houseで行われた公演「ムシノホシ」(写真撮影:Yukiko Onley)
Play houseで行われた公演「ムシノホシ」(写真撮影:Yukiko Onley)
Play houseで行われた公演「ムシノホシ」(写真撮影:Yukiko Onley)
Play houseで行われた公演「ムシノホシ」(写真撮影:Yukiko Onley)
Play houseで行われた公演「ムシノホシ」(写真撮影:Yukiko Onley)
バンクーバー国際ダンスフェスティバルのディレクター:バーバラ・ボアジェ氏(中央)、ジェイ・平林氏(右)と
(取材 大倉野昌子)