日本の伝統芸能 2
綾子舞(写真提供 平野弥生)
佐渡の能舞台
かつて、明治以前、佐渡には100を越える神社やお寺に付随する能舞台があった。現在33を数える能舞台がある。どうして佐渡なのか、東京都の約半分の面積の島に、何故そんなにも多くの能舞台があるのか?それを確かめたくて、佐渡に渡った。
佐渡に着く前に、佐渡汽船の案内所で能舞台を見て回るにはどうするのが一番いいか、聞いてみた。「レンタカーを借りるのが一番良い」という答え。一人で、道も分からないところで、いくら日本語だからと言ってもこれは却下。結局3日間のバスパスを手に入れた。
まずは、バスで両津から本線バスの終点、島の西側の相川へ。約1時間。シーズンを過ぎていたので、相川にある金山までバスは行かない。途中で降ろされてしまう。これが現実だったのだ。「レンタカーを借りるのが良い」というのが身にしみて分かる。しかし、バスに乗っている人もいるのだ。よく見ると、老人が多い。たまたま乗ってきた老女は、病院へ行くと言う。乗り換えもしなくてはいけなくて、乗り換えの待ち時間も入れると、相当の時間がかかるようだった。また、通学の中・高校生も多く乗ってきた。バスの運行が一番多い本線でも、大体1時間に1本。以下の路線は推して知るべし、だ。
両津の島の反対側の佐和田地区にある佐渡博物館で資料をもらって、少し様子が分かる。
佐渡大膳神社
佐渡加茂湖
しかし、博物館の展示資料では、現在、能舞台は「35」、となっているが、佐渡の観光案内では、「33」、となっていたので、その「35」のどれが無くなったのか、受付の女性に聞いてみたが知らない。担当の年配の男性が出てきて、「イヤー、地震や洪水で今は33なんですが・・・。多分、これとこれだと思うんだけど。誰も言ってこないからねえ」という返事。いずれにしても2泊3日の滞在で全部をまわるのは不可能だと思い始めていたので、「どれがない」と、いうのは問題ではなかった。
そう言えば、バスを待っている間に立ち寄った、小さな店で店番の女の子と話をしたが、能舞台なんて全く知らないし、興味もなさそうだった。「バス?ウーン、いつも車で移動するから、どこまでバスで何分、なんて分からないな」「休みの日には、フェリーに乗って友達のいる新潟にいくのが楽しみ。でもフェリー、高いからなあ」
そうこうして、3日間で6カ所の能舞台を訪れた。中でも、長江熱串彦神社の能舞台は、本線のバス通りから田んぼの中の道なき道を15分ほど歩いたところに現れた、藁葺き屋根のかなり古い建物で、感動した。
しかし、何故佐渡なのか。その答えは、金山だった。勿論、世阿弥が流された(1434年)島ではあるが、それがきっかけではない。一時は年間400キロという金を採掘していた佐渡。徳川家康は、江戸幕府の天領(直轄の地)とし、金山開発を進めた。260年の長期安定政権である、江戸幕府を支えたのは、佐渡金山だった、と言っても過言ではないという。江戸時代末期、佐渡金山の収支も悪化の一途を辿り、江戸の崩壊、明治時代に突入する。そんな佐渡に金山奉行として1604年に大久保長安が赴任。自身能楽師でもあったため、二人の能楽師を奈良から伴い、神社に能を奉納していた。また、金山を発見した山師達が、鉱山の無事と発展を祈り、競って神社・仏閣を建立した。そして、能樂は、武士の、そして庶民の「たしなみ」になっていく。しかし、江戸時代末期、佐渡金山の収支も悪化の一途を辿り、江戸の崩壊、明治時代に突入する。明治に入り、「能舞稽古差し止め」が布告され、また、鉱山都市だった時代の相川には5万人の人々が住んでいたと言われるが、人口は減る一方で、現在は全島で6万人強だということだ。
日本でも類をみない数の能舞台を誇る、佐渡。ここでも、過疎化に悩んでいる。このまま、若い人達が興味を持たなければ、どうなっていくのだろう。
フェリーの発着する両津港近くの商店街は、次々とシャッターが下りていて、人影は少ない。反対に、郊外の主要道路に発展している大型スーパーなどには、大勢の人が車で乗り付けている。どこの国でも同じ風景なのだが、寂しいことだ。
それでも、4月末から10月初旬にかけて、薪能など年間20公演が予定されている。
詳しくは、http://www.visitsado.com/2014_news/2014nou.pdfをチェック。日本に行かれる機会があれば、立ち寄ってみてはいかがだろうか。
滞在した両津港近くの加茂湖に面した旅館からみた夕焼けと朝日の中の自然には、悠久の時の流れを感じさせられた。
山形・鶴岡の黒川能
黒川能は、山形県鶴岡市黒川にある、春日神社の「神事能」として、氏子達の手によって伝えられてきた。少なくとも室町末期に発祥したものと考えられている。戦国時代、都周辺の能役者が後援者を求めて次々と地方に下っていった。そうした時代に誰かが黒川に能役者を呼び寄せたのだろう。黒川能が、修験地として有名な出羽三山の麓近くに伝わるのは、偶然のことではあるまい。
黒川能
黒川能
世阿弥が大成した後の猿樂能のながれを汲み、現在の5流(観世、金春、宝生、金剛、喜多)と同じ系列だが、いずれの流派にも属せず独自の伝承を続け、古式を残している。500年以上にわたり、黒川の人々の信仰心と能楽への愛着に支えられ、幾多の困難を乗り越えながら、守り伝えられ、昭和51年に重要無形民族文化財に指定された。現在は240戸の春日神社の氏子が上座と下座の二つの宮座に分かれ、同時に能座を形成している。それぞれの座は、能太夫である座長を中心に運営され、能役者は囃し方を含め、子供から長老まで、役150名、能面250点、能装束500点以上、演目数では能540番、狂言50番と大きな規模を誇っている。年に8回の定期的な演能があり、その他、依頼公演も行っている。
私が見たのは、11月23日の新嘗祭。朝10時から始まるという。
春日神社は、JR鶴岡駅からタクシーで20分ほど。ここも同じくバスで簡単に行けるところではない。本数が1日4本ほどしかない。しかも、日曜日には近くまで行かないという。バスをおりてから15分くらい歩かなくてはいけない、と言うことだった。
春日神社の隣に王祇会館と言う、黒川能の資料館があり、その会館の見学も兼ねて、早めに出かけた。
王祇会館は立派な建物で、昔の映像を見られる部屋があり、また、衣装、面なども展示している。向かいには黒川能専用の稽古のための建物がある。そうして、春日神社の拝殿に入っていく。通常の能舞台とは異なり、左右両方に橋掛かりを持つ。上座の役者は観客に向かって右、下座の役者は左から登場する。これは、雅楽の影響か。昔、神社の祭礼に舞楽や雅楽が伝播されていったことを考えると、あながちありえないことではあるまい。
拝殿には多くの昔の役者や演目からの絵などがいたるところに展示されている。
プログラムは、神事に続き、能「安宅」、狂言「柿山伏」、そして能「小鍛冶」と続いていった。途中、お酒が回ってくる。観客も小さいお猪口で回し飲みをするのだ。リラックスした中、演技は続いていく。休憩はないので、それぞれに持参した弁当を食べながら見る。
能にしても狂言にしても、方言のアクセントとイントネーションで語られる。初めての経験だったので、最初は戸惑った。観客の中に東京から10年通って見ている、という女性に出会った。役者に知り合いもいるようで、「今年は米が豊作で、安くなると益々生活苦しいよね」と話していた。ここの役者は皆農家の人なのだ。唯でさえ過疎化で役者が中々そろわないのに、益々離れて行ってしまう、と心配なのだと言う。
ここでも、同じ悩み。過疎化と運営の厳しさ。
春日神社
つれづれなるままに・・・
その他、山伏神楽のクラスに参加したり、東京の日本青年館ホールで開催されていた神楽の映像上映会に参加し、全国各地の10箇所の神楽の映像を見た。名古屋の女歌舞伎を主催する市川櫻香さんにお会いした。また、国立能楽堂での蝋燭狂言で、人間国宝の山本東次郎の「籤罪人」に感動し、12月の坂東玉三郎・片岡愛之助・中村獅童・市川海老蔵が出演する歌舞伎座公演、の2日目を観劇した。
そんな日々の中で改めて思ったのは、パフォーミング・アーツは、一代限りのものだ、という事。そして、人が変われば、芸も変わる。また、その人の年齢でも変わる。だから、「今」見なければ、同じではない。それから、その時の政治・政策・経済と無縁ではない。「もし、あの時」という事が沢山ある。明治維新は起こるべきものだったのだろうけれど、もし違う人がやっていたら、どうなったのだろう。
銀座歌舞伎座
今の時代、伝統芸能が生まれて育った時と、価値観が全く違ってきている。いくら良いものであっても、見る目を持たない人が見たら「猫に小判」である。どうやってみる目を育てていくのか。
松竹芸能の人とも懇意にしておられる市川櫻香さんと話したときに、松竹の人が「日舞はもう続けていく事すら難しくなってきている」と言っていたという。
それは日舞に限ったことではあるまい。古典芸能全般の悩みだろう。
「伝統芸能を習おう」という人が減り、また、今までの教え方では、生徒がついてこない、生徒を獲得することすら難しくなってきている。
世阿弥は、「世間の変化の中で、その変化と関わりあっていくのが人間であり、芸術である」と考え、その変化のなかで、変化することを恐れず、とどまらない精神を求めた。
また、狂言の山本東次郎家では、「乱れて盛んならんよりは、むしろかたく守りてほろびよ」という家訓があるとか。
櫻の散り際をめでる日本の文化。でも散って欲しくないものもある。
国立能楽堂蝋燭狂言
(取材、写真提供 平野弥生)