日本の伝統芸能 1

 

10月8日から12月8日までの2カ月、カナダカウンシルの助成で、日本の歌舞伎以前の芸能(800~1800年代)について日本でリサーチをしてきた。 専門的なことはさておき、滞在中に出会った印象に残った伝統芸能について、紙面でご紹介していこう。

 

 

綾子舞(写真提供 平野弥生)

  

雅楽と舞楽とは?

 雅楽とは、飛鳥時代より朝鮮半島(高麗、百済、新羅など)中国(唐)遠くはベトナムなどの東南アジアから伝来した樂舞と日本古来の歌舞が融合して、大宝元年(701)に雅楽寮が設置され、奈良時代には宮廷歌舞として形成された。やがて、830年代に盛んに改作・新作が行われ、以降、和風文化として、独自の発展と伝承されていく。

 雅楽・舞楽の中に見る朝鮮半島系(右方という)と中国系(左方という。ベトナムを含む)の音楽や舞の明らかな違いは、例えば、使用する楽器、舞台に入場の際の出入り口、衣装の色、細かくは、踊りの手の構えなどがある。

 雅楽・舞楽は、平安時代中期には宮中社会で浸透し、親しまれていく。その様子は、「源氏物語」にも光源氏が頭中将(とうのちゅうじょう)と共に「青海波」を帝の前で舞った、というくだりがでてくる。その後、中世にはゆるやかに衰退しつつも、以降に台頭した武家も、雅楽を学び、あるいは擁護する。そして、舞楽は法会や祭礼に付随して、列島各地の神社などへ、広く伝播してゆく。江戸時代になり、世情が安定して、第2の盛期とも呼べるような時代になる。家康は江戸城紅葉山に樂所を設置し、三方及第の制という一種の試験制度ができた。京都・奈良・天王寺の三法樂所と紅葉山の樂人が集められ、試験は3年ごとに2世紀の間続く。こうした厳正な試験制度の中で楽人は日々稽古を重ねたが、明治維新と共に、雅楽も変革を余儀なくされた。皇居が東京に移り、雅楽局が設置され、樂人は一同に集められることに。樂統がひとつになったことで、曲目や奏方など各流儀を統一する必要が生じ、曲の選定と楽譜が編纂された。樂家以外に門戸が開かれたので、現在の約半数の樂師は樂家出身ではない。現在の宮内庁樂部の定員は26名である。勿論宮内庁の樂部は終身雇用だが、樂師になるには大変な修行があるという。東京芸大の邦楽科には、雅楽専攻が設置され、専門家を養成している。

 私がカナダに移民した前後(12年前)から、「雅楽」という言葉が一般によく聞かれるようになってきていたが、まだまだ特殊な、「神社での結婚式」で聞かれる音楽、というくらいの感覚だった。昨今、あちこちに同好会や研究会があり、全国でもざっと40カ所以上あるようだ。また、多くの神社やカルチャー・センターなどでも教えるようになってきている。

 私が今回お稽古の見学・実技指導や公演を見せていただいただけでも、9団体。先生方には、雅楽で使う楽器を製作しながら、各地で行われる公演に出演・客演したり、また、各カルチャー・センター・神社などで楽器を教えておられる方も多かった。

 雅楽で使われる楽器は、まず扱いが簡単ではない。私は篳篥と笙を試してみたが、笙は、常に暖めていなければならず、篳篥は、リードをお茶で湿らせてから使う、など、音を出す以前に色々と知っておかなければならないことがある。こういう細々としたことが、なかなか一般に馴染んでいかない理由の一つでもあろう。

 一方、舞は、ゆったりとしたものと、「走り舞」といわれる早い動きのものがあるが、ゆったりはしていても、やっていると結構汗が出てくる。じんわり全身を使うものなのだ。太極拳と似たところがあるかも知れない。また、衣装を着せていただく機会があったが、何枚も重ねて着る上に、重いものもあり、また、裾が長いものもあり、その扱い方を知らなければ、優雅に舞うのは難しいだろうことは想像に難くない。また、以前は楽器も舞も男性のみであったようだが、現在は、各団体に女性の存在は大きい。

 10月14日の夕方行われた東京の乃木神社での「管絃祭」は、たまたま嵐の後の神社の境内での公演で、風の音と管絃の音が相まって、不思議な空間を作り出し、まさに幽玄の世界だった。

 雅楽の催しは、日本各地で頻繁に行われており、興味のある方は、雅楽協議会 www.gagaku-kyougikai.com/   電話042-451-8898(鈴木様)へ。

 

 

雅楽の衣装をまとった筆者(撮影 生川純子)

 

大阪国立劇場人形浄瑠璃文楽

 平安時代から傀儡子(ぐぐつ)という操り人形などの旅興行をする個人もしくは団体の存在はあった。時代の変遷の中で、歌舞伎の登場と同じ頃、琵琶法師と人形遣いの出会いが人形浄瑠璃の始まりのようである。豊臣秀吉の没前には、京都の四条河原で人形浄瑠璃の興行が行われていた記録がある。1734年以降3人遣いの現在の手法が本流になる。歌舞伎の歴史の中でも、人形浄瑠璃の歴史は切り離して語れない。人形浄瑠璃の台本作家として活躍した近松門左衛門の作品は、歌舞伎でも多く上演されている。現在文楽は、大阪日本橋の常打ち劇場である国立劇場と東京の国立劇場で定期的に公演が行われている。

 人形の大きさは人間の3分の2ほど。重さは10キロ以上で、男性3人の人形遣いによって操られる。頭と右手を操るのが主遣い、そして左手担当の左遣いと足担当の足遣いの3人。主遣いの人は、通常着物に袴で、他の人は黒衣である。また、浄瑠璃担当の大夫(たゆう)が話しを語り、三味線が伴奏する。

 人形遣いは、入門して約10年、足だけしか遣わせてもらえない。その後左手になって同じく10年。そうしてようやく主遣いになるのだ。師匠は「教えない」と言う。とにかく盗むしかない。3人で一緒に動く間に、その遣い方を自分で学ぶのだという。足しかやらせてもらえなくても、たまたま代役で左遣いが回ってくるということもないとは限らない。そういうときのために、足をやりながら、他の担当の動きもしっかり自分のものにしていく必要がある。「足遣いを10年やれば、修行の半分は終わっている」と、いうものらしい。

 10月30、31日朝11時から4時半までの2日間の舞台稽古を見学させていただき、初日の昼・夜の2公演を観劇、また文楽研修見学会に参加した。

 公演は、近松門左衛門の「双蝶々曲輪日記」と近松半二の「奥州安達原」で、特に「安達原」での人形遣いの桐竹勘十郎(三世)が素晴らしかった。勘十郎が遣う人形が出てくると、人形が大きく見える。空間がしまる。特に「奥州安達原」の「岩手」役の緊張感は、圧巻だった。 (この題目は歌舞伎では「黒塚」として、能でも「黒塚」または「安達原」として有名)

 今が脂の乗っている勘十郎の舞台は、機会を見つけてぜひ見ていただきたい。

 舞台稽古や研修会で感じたのは、こういう日本の伝統芸能では、師匠の言うことは絶対だ、ということ。また、日本人だからこそ、他の国では考えられない年月を要して一人前になる文楽が、こうして続いてきたのだろう。それでも後継者の養成には苦労があるようだ。いずれにしても、心底文楽を好きでないとできないだろうと思う。新作を作っていくこともあるようだが、「しっかり古典を守って、形を崩さず次の世代に渡していきたい。」と勘十郎は言う。世界中でもたった一つ、3人遣いの人形浄瑠璃「文楽」。そのユニークな日本の伝統を残していってほしいと祈るばかりだ。

 

 

文楽(写真提供 平野弥生)

  

新潟県柏崎市の「綾子舞」

 約500年前に鵜川の女谷に伝えられたという綾子舞。出雲の阿国が始めたという歌舞伎踊りの初期の面影を残している、といわれる民族舞踊で、昭和51年に国指定重要無形民俗文化財に指定された。現在女谷にある「高原田」と「下野」の2集落で保存伝承されている。

 11月16日に柏崎文化会館アルフォーレ大ホールで公演があった。

 二つの集落の踊り手とお囃子が交互に、「小歌踊り」「囃子舞」「狂言」を独自の幕の前で演じていく。女性が踊る小歌舞は、赤い布(ユライ)をかぶって踊る。その姿は、出雲の阿国が始めたという、女歌舞伎の踊りに似た扮装と扇の使い方だ。現存する、出雲の阿国の絵にそっくりだ。狂言も独特で、若衆歌舞伎の演目にあるものを伝えているという。現在のいわゆる「狂言」と言葉そのものは似ているのだが、動きが全く異なる。その動作は、初期の歌舞伎を彷彿とさせる。

 会場は、ほとんど満席の観客で埋まった。

 出演者の中には、男子中学生や高校生もいて、今後の活躍が楽しみだった。

 終演後、柏崎市綾子舞保存振興会・後援会の事務局長の小池一弘さんに、その稽古場であり、資料館である綾子舞会館に案内していただいた。会館は、柏崎駅から車で2、30分山に向かった女谷にある。立派な建物で、終わったばかりの衣装を干していた、衣装などを保存するための部屋、広い畳のお稽古場、そして、併設する資料館がある。ビデオなども販売していた。

 小池さんの車中でのお話では、過疎化が進み、とにかく後継者を獲得するのが大変だと言う。各種補助金はあるものの、運営はボラティアで成り立っている(小池さんはリタイアされた元小学校教師)、あちこち公演依頼はあるものの経費が出ないため、全部を引き受けることはできない。学校の課外授業として、地元の小・中学校で綾子舞を教えていることなど。綾子舞は、こうしたボランティアの熱い思いが支えてきているのだ。

 

 

綾子舞(写真提供 平野弥生)

     

(取材 平野弥生)

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