通円悠花さん・中谷陽里さん

 

 「親のビジネスを受け継ぐ…幸運と挑戦!」

 

JWBA(日系女性起業家協会)主催の第15回講演会が10月16日、リステルホテルで開催され、通円悠花さんと中谷陽里さんが講演した。850年を越える歴史を持つ宇治茶の老舗「通圓」に生まれ育ち、カナダで日本茶ビジネスに挑戦する通円さんと、バンクーバーの日系コミュニティで長年親しまれてきたオークウェスト不動産の二代目社長として活躍する中谷さん。親から受け継いだビジネスを若い力で盛り上げる二人の講演に、参加者は熱心に耳を傾けた。

 

 

バンクーバーで講演した中谷陽里さん(左)と通円悠花さん

  

「老舗の挑戦」 Tsuen Tea International Ltd. 通円悠花(つうえん ゆか)さん

通圓の歴史

 京都で854年続く宇治茶の老舗「通圓」。京都と奈良という二つの都の間に位置する宇治で通圓が創業されたのは、平安時代末期の永暦元年(西暦1160年)のことだ。初代は源頼政の家臣だった古川右内。晩年隠居した際に「太敬庵通円政久」を名乗り、宇治橋のたもとに庵を結んだ。その後子孫は通円の姓を名乗って宇治橋の橋守を務め、茶屋を営んだ。琵琶湖から大阪湾に流れていく水は、大きな石の多い宇治川に入ると、まろやかになる。通圓茶屋ではこの水を使い、古くから通行人に茶を振る舞ってきた。現在の建物は1672年に建てられたものだ。店内には多くの貴重な茶壺や芸術品が並んでおり、とんちで有名な一休和尚が作った初代通円の木像もある。また狂言には、能の「頼政」をパロディにした「通円」という演目もある。

 

通円悠花さんの歩み

 通円悠花さんは、通円家の二十三代当主・通円亮太郎さんの長女として生まれた。弟は二十四代当主の通円祐介さんだ。やわらかい京都弁が印象的な通円さんは、茶文化に親しみながら育った。子供の頃は茶壺に入ったり、急須と湯飲みでままごとをしたりして遊んだ。小学校へは宇治橋を渡り、平等院の境内を通って通学。学校には「お茶飲み場」があり、蛇口をひねれば、ほうじ茶が出てきた。お茶を飲むだけでなく、お茶でうがいをすることで、虫歯予防と風邪予防にもなる。通円さんがカナダに初めて来たのは、短大卒業後。宇治市と姉妹都市であるカムループス市へ留学した。留学をきっかけに、カナダでお茶のビジネスに挑戦したいという思いが強くなり、移民を申請。2002年に移住し、「Tsuen Tea International」を立ち上げた。その後結婚し、出産してからは子育て中心の生活になったが、二人の娘の育児が一段落すると、日本茶ビジネスを本格的に再開した。

 

食環境の変化と 日本茶の消費

 日本茶の消費は、食を取り巻く環境に影響される。特に日本では、1970年代に食環境が大きく変化した。ファーストフードチェーンなどの外国資本による外食業が国内に参入し、その規模は急速に拡大。家庭での食事についても、電子レンジとレトルト食品や冷凍食品の普及により、調理が大幅に簡便化された上、個人単位でできる作業になった。その結果、家族団欒は崩壊。家族が揃ってお茶を飲むことが少なくなり、日本茶離れが進んでいる。また、急須でいれたお茶を飲む人が減り、ペットボトル入りのお茶が普及している。しかし急須で茶葉を使ってお茶をいれれば、10グラムでペットボトル4本分のお茶ができる。さらに茶殻は食べたり、肥料にしたりすることもできるため、ゴミの減少につながり、環境にやさしい。通円さんは、「肩肘張らず、家でリラックスして、お茶を飲んでいただきたい」と話す。

 

日本茶の魅力を伝え、日本とカナダの交流の橋に

 老舗として伝統を守りながらも、通圓茶屋は新しい試みにも積極的に挑戦している。茶房では、美味しいお茶に加えて、抹茶スイーツや茶だんごも堪能できる。カナダを拠点に日本茶の伝道師として活躍する通円さんも、シェフやパティシエとのコラボレーションを通して、日本茶の新しい楽しみ方を提案している。パティシエの世界大会にカナダ代表として参加するモレトン史子さんも、作品に通圓の抹茶とほうじ茶を使っている。また、バンクーバー市内の「Artisan Tea Bar」では、通圓の抹茶を使った抹茶ラテが好評だ。茶文化についてのレクチャーを英語で行ったり、京都を訪れるカナダ人を祇園のお茶屋遊びに招待したりと、通円さんの活動は多岐にわたる。今後も日本茶の魅力を広く伝え、日本と海外の交流の橋にしていきたいと通円さんは語った。

 

 

日本茶の魅力について語る通円さん

 

 

「授けられた道を走る」 Oak West Realty Ltd. 中谷陽里(なかたに ようり)さん

オークウェスト不動産の歴史

 1980年代、日本経済が成長する中、日本人が海外の不動産に投資する動きが活発化した。その波に乗り、当時まだ日系の不動産業者が少なかったバンクーバーでオークウェスト不動産を立ち上げ、育ててきたのが、中谷さんの父・太三さんだ。和歌山県で電気屋を営んでいた太三さんと和子夫人が、生後6カ月の中谷さんを連れてカナダに移住したのは1982年のこと。太三さんは英語で苦労しながらも、不動産免許を取得し、1985年に会社を起こした。それ以来約30年にわたり、不動産売買・管理および賃貸斡旋サービスを提供し、バンクーバーの日系コミュニティで親しまれてきた。長女の中谷さんは二年前、30歳になった時に父から引き継いで社長に就任。現在はマネージング・ブローカーを務める父と、経験豊かな従業員に支えられながら、仕事に邁進している。

 

20代で飛び込んだ不動産業界〜仕事を楽しむ心を大切に

 バンクーバーでのびのびと育った中谷さん。UBCでの学生時代は、家庭教師のバイトも楽しく、毎日が充実していた。大学卒業後、オークウェスト不動産に入社。それまで日系社会との接点がほとんどなかった中谷さんにとって、これは大きな挑戦だった。ビジネスで使うような日本語には不慣れだった上、23歳という若さ。不動産は人生で最も大きな買い物であり、若い人には任せられないと思う顧客が多いため、20代で不動産のセールスをするのは難しい。しかし、不動産管理の仕事は順調に伸びた。顧客については、入社当時は9割が日本人だったが、現在は半数以上が日本人以外の現地または他国の顧客だ。日系ビジネスが今後成長していくためには、現地の顧客の割合を増やすことが重要だ。厳しい不動産業界で会社が30年間営業を続けてこられたことには心から感謝している。二代目でその歴史を途切れさせることがないよう、もがきながらも、仕事を楽しむ心を忘れずに、努力を重ねる日々だ。

 

過去100年のバンクーバーの街並みの変遷

 バンクーバーの街並みは絶えず変化してきた。講演の中で中谷さんは、古い写真の数々を紹介しながら、この街の歴史を振り返った。主に木材産業が盛んだった1920年代から、ダウンタウンのビジネス街ができた70年代までの変化には目を見張るものがある。さらに90年代になると、コールハーバーやイエールタウンの大規模住宅開発が進み、2000年には現在に近い風景に。スタンレーパークからダウンタウンを写した新旧の写真を見比べると、現在高層コンドミニアムが建ち並ぶエリアにも、100年前には何もなかったことがわかる。見る人を圧倒するバンクーバーの美しい景観。「こういう写真を見ると、バンクーバーで良かったな、本当に素敵な街だなと思います」と中谷さんは笑顔で話した。

 

今後も目が離せないバンクーバーの住宅市場

 メトロバンクーバーにおける2013年の住宅着工件数は約1万8600戸。地域の人口は増加しており、今後も新しい住宅を建設していく必要がある。不動産事情は世代間で大きく異なり、すでに住宅を所有する中高年層がその価値の上昇により恩恵を受けるのに対して、これから住宅を購入したい若年層は苦労するだろう。しかし、例えば共働きの夫婦の場合、物件を購入する地域によってはコンドから一軒家まで、さまざまな選択肢があることを中谷さんはわかりやすく説明した。今後もアビュータス・センターやオークリッジ・センターなど、多くのエリアで開発が進んでいく。2040年を想定した大規模な交通計画もあり、バンクーバーの25年後が楽しみだ。

 

 

家族とオークウェスト不動産の歩みを振り返る中谷さん

 

 

(取材 船山祐衣)

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。