津田塾大学名誉教授 飯野正子氏 講演会
日系人と戦後の日本復興を助けたララ救援物資
9月19日、ブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)ロブソンスクエアで、国際交流基金とカナダ日本研究学会による特別講演会が開催され、津田塾大学名誉教授・前学長の飯野正子氏が講演した。日系人の歴史の研究で著名な飯野氏は、第二次世界大戦終戦直後の日本の復興を助けた「ララ救援物資」と海外日系人の関わりについて語った。約40人の聴衆は、貴重な写真の数々に見られる戦後の日本と日系人の歩みに思いを馳せながら、飯野氏の講演に熱心に耳を傾けた。
UBCロブソンスクエアで講演する津田塾大学名誉教授の飯野正子氏
BC州は日系カナダ人のルーツ
カナダへの最初の日本人移民が到着し、居住したのはブリティッシュ・コロンビア州だった。飯野氏は講演を始めるにあたり、日系カナダ人のルーツとも言えるBC州で講演できることは光栄だと語った。また今回の講演会は、在バンクーバー日本国総領事館開館125周年を記念する行事の一つとして開催された。岡田誠司総領事は挨拶の中で、1889年にバンクーバーに領事館が開設されてから125年という節目の年に、日系カナダ人の歴史の専門家である飯野氏の講演を聴く機会に恵まれたことは大変喜ばしいことだと話した。
ララ救援物資とは
ララ救援物資は戦後の日本の復興に大きく貢献したが、ララという名称に馴染みのない人も多いのではないだろうか。ララ(LARA)とは、Licensed Agencies for Relief in Asia(アジア救済公認団体)の頭文字をとった略称だ。Church World Service(教会世界奉仕団)、American Friends Service Committee(アメリカ・フレンズ奉仕団)、Catholic War Relief Service(カトリック戦時救済奉仕団)など13団体がララに加盟しており、この組織を通じて、善意ある海外の民間人から寄せられた救援物資が、終戦直後の日本に送られた。この救援物資活動は、海外に住む日系人の働きかけにより実現したものだった。
(左から)カナダ日本研究学会会長のデビッド・エジングトン氏、在バンクーバー日本国総領事の岡田誠司氏、飯野正子氏、UBCアジア学部助教授のクリスティーナ・ラフィン氏、UBC法学部教授の松井茂記氏
第二次世界大戦と日系人
カナダとアメリカにおける日系人の歴史を振り返ると、その社会的立場は、日加・日米関係に大きく影響されてきた。特にその関係が悪化した第二次世界大戦中、真珠湾攻撃をきっかけに日系人は敵国人として強制収容された。その後、日本は敗戦国となり、北米における日系人への差別は続いた。収容所にいた時よりも、戦後、何もないところから再出発した時の方が辛かったと語る日系人もいる。経済的な困窮はもちろんのこと、日系人としての誇りを失い、社会において二流市民としての屈辱を味わうという精神的な苦悩も大きかった。その結果、自分が日系人であることを示すもの、あるいは周囲の人々に自分が日系であることをわからせるものから自分を切り離そうとしたと論じる研究者は多い。しかし、そんな苦しい生活の中でも、日本で困窮している人を助けたいと思う日系人がいた。日本へのララ救援物資の約20パーセントが、海外在住の日系人によって用意されたものだった。これらの日系人は、日本の救援活動に参加することで、日本との絆を再確認していたのだ。
戦後の日本に希望を与えたララ救援物資
第二次世界大戦終戦直後の荒廃した日本では、ほとんどの人が生活に必要な食料や衣料を確保できない状態だった。そんな中で送られてきたのが、ララ救援物資。1946年から1952年までの間に、食料品、衣類、医薬品、靴、石けんなどが1万6704トン、ヤギ2036頭、乳牛45頭のララ救援物資が日本に届いた。飯野氏がインタビューしてきた人の中には、受け取ったララ救援物資のことを鮮明に憶えている人もいた。ある女性が受け取ったのは、ブローチとスカーフがついたコート。日本では見たこともない西洋のスタイルのそのコートは、彼女の一番のお気に入りとなった。ララ救援物資の総額は当時の400億円以上と推定される。これは莫大な額であり、日本の人口の15パーセントにあたる1400万人がララ救援物資の恩恵を受けた。
日本におけるララ救援物資の受け入れ
1946年11月、ララ救援物資を載せたハワード・スタンベリー号が横浜港に到着。最初の物資は、戦争による被害が最も大きかった地域の乳児院や児童施設などに届けられた。物資の取り扱いに関しては、GHQからの指令により日本政府の役割が決められており、政府は物資が港に到着してから消費する団体の手に届くまでの貯蔵、分配、配送を行い、GHQに毎月報告していた。しかし1950年からはこれが変わり、GHQを通さずに、日本政府とララの代表である「ララ救援物資中央委員会」の間で物資が取り扱われるようになった。この委員会で献身的にララ救援物資活動を支えた人の中に、教会世界奉仕団のジョージ・E・バット博士やアメリカ・フレンズ奉仕団のエスター・B・ローズ女史らがいる。バット博士はカナダ人の宣教師で、戦前から日本の社会福祉のためにその人生を捧げていた人だった。
貴重な写真が映し出す当時の様子
飯野氏は講演の中で、ララ救援物資に関係する貴重な写真の数々を紹介した。横浜港に到着したハワード・スタンベリー号や、ララから届いたミルクを飲む施設の子どもたち、バット博士とローズ女史、昭和天皇皇后両陛下がララ救援物資活動の視察をされているところなど、当時の様子を伝える多数の写真が会場のスクリーンに映し出された。日本で撮影された写真に加えて、海外で日本に送るための救援物資を用意している日系人の写真もあった。
飯野氏が紹介した写真の一つ。「ララを通して送られたミルクを飲む施設の子どもたち」
ララと日系人〜 カナダでも活発化した救援活動
第二次世界大戦終結後、ヨーロッパへの救援が行われる中、日本への救援を行うことを呼びかけ、それを実現させたのが海外日系人だった。日系人による日本の救援活動は、アメリカの日本語新聞などで大きく取り上げられ、各地の日系社会で次々と救援団体が立ち上げられた。外務省の調査によると、ララ救援活動に貢献した日系人の団体は、北米、南米合わせて36あった。カナダでは、戦後多くの日系人が移り住んだトロントを中心に救援活動が活発化。1946年から48年までは、教会を中心とする「オンタリオ日本救済委員会」が救援物資を集め、それがアメリカにあるララを通じて、ララ救援物資として発送された。1948年以降は、日系市民協会(JCCA)が引き継ぎ、日系人の家庭を一軒一軒訪問して、お金や古着などの寄付を集めた。トロントの活動はその地域にとどまらず、アルバータ州の日系市民協会も大いに貢献した。
日系人からの さまざまな支援
ララを通じた救援に加えて、日本にいる親戚に個人で物資を送った日系人も多い。1946年に強制収容所を出てユタ州の農園で働き始めた日系女性は、その後すぐに日本の親戚に物資を送り始めた。自分の子どものための砂糖も十分にはなかったが、それでも毎日少しずつ瓶に砂糖を貯め、いっぱいになったら日本に送った。飯野氏が1980年代から90年代にかけてカリフォルニア州でインタビューした日系人の中には、その頃になってもまだ日本の親戚から戦後の支援について感謝されるという人もいた。それほどに、その支援は大きな意味を持っていたのだ。また、日系人による救援は日本でも行われていた。戦後すぐに佐世保市に駐留していたハワイ出身の日系二世の兵士は、栄養失調に苦しむ近所の子どもたちを見て、自分の食料を渡していた。舞鶴市に駐留していたハワイ出身の日系人兵士らは、日本の人々を勇気づけるために桜の木を植えた。これは現在「アロハ桜」と呼ばれ、日本とハワイの友好の証になっている。
今回の講演には、飯野氏が長い年月をかけてインタビューを行ってきたからこそ知り得た日系人の声など、歴史を知る上で非常に貴重な記録が詰まっていた。講演終了後の質疑応答では、日系カナダ人の参加者が戦後のエピソードを紹介する場面もあり、有意義な意見交換の場となった。
参加者は当時の様子を映し出す貴重な写真の数々に見入っていた
飯野正子氏 プロフィール
大阪府出身。津田塾大学英文科卒業。シラキュース大学大学院歴史学科修士課程修了。日加・日米関係、日本人移民・日系人の歴史が専門。1981年に津田塾大学助教授、91年に同大教授に就任。その間、マギル大学客員助教授、アカディア大学客員教授などを歴任。国際カナダ研究カナダ総督賞を受賞。カナダ首相賞を受賞した「日系カナダ人の歴史」など著書多数。2004年から2012年まで津田塾大学学長。現在は同大名誉教授。
(取材 船山祐衣)