作家 桐島洋子氏 講演会
『いきいきと輝く生き方』
9月5日、在バンクーバー日本国総領事館にて開館125周年記念講演会、作家桐島洋子氏による『いきいきと輝く生き方』が開かれ、会場満席の約80余人が参加。後半で寄せられた質問に気さくに答える形での和やかな講演会となった。(以下は講演と質疑応答からの概要)。
総領事館で講演した桐島洋子氏
女性の活躍推進
冒頭で在バンクーバー日本国総領事岡田誠司氏が「日本では第2次安倍改造内閣が発表されました。この政策のひとつに、女性の活躍推進が打ち出されました。女性が社会進出をしていくためにはどうしたらいいのか。いわゆるキャリアウーマンの走りとして先駆者的な役割を果たしてこられました桐島洋子さんに、これまでの経験を踏まえてお話を伺いたいと思います」と挨拶した。
人の命が消えていくということ
桐島洋子氏は1937(昭和13)年東京生まれ。
生まれた翌日に支那事変が始まり、洋子が生まれてから世界が平和でなくなったとよく母に言われました。それでも中国の上海ではオペラやバレエ観劇など優雅な生活をしていまして、このころ私を好きだという金髪の美少年との出会いもありました(笑)。
第二次世界大戦が始まってからは目の前の川で日本の軍艦が撃墜されたり、道路に白墨で美しい字を書いていた少年が亡くなったり、人の命が簡単に消えていくのを子どもごころに目撃しました。
従軍記者としてベトナム戦争に出向いたときのこと。
私は好奇心のかたまりですから、なかなか他の人が行かれないところに行かれるということで、そこが危ないということはあまり気にしなかったですね。軍服を着てブーツを履いて挨拶に行ったときは、アメリカ人の司令官でもぎょっとしていました。でもさすがアメリカ人、オンナだとか言われませんで、ただ「テイク・ユア・オウン・リスク」と言われました。
ヘリが落としてくれた携帯食を食べながら将来の夢を語っていた若い兵隊たちが、その後死体になって戻ってくるのです。とても辛かったです。サバイバーズ・ギルト(罪悪感)の引け目を感じました。
「女性が社会進出をしていくためにはどうしたらいいのでしょうか」と冒頭で挨拶した岡田誠司総領事
筆まめから人生が開けて
終戦後、葉山の別荘に戻って過ごした少女時代。
東大経済学部出の父は生活者としては心細い人でしたが、何を聞いても知っている智の巨人でした。最近久しぶりに『風と共に去りぬ』を読み返しました。戦争に敗れた没落家庭。父親は腑抜けのようになり一家を支えた母親の姿。自分の物語のような感じがします。
父親から「勉強しなさい」と言われたことはありませんが、英語くらいできないと不便だということで『八十日間世界一周』(ジュール・ヴェルヌ著)という本を渡されました。原書で一冊きちんと読むと自信がつきますよ。本がいかに大切なものかがわかります。最近はネットで情報を得るだけで、本を読む人が少なくなっていくことが非常に残念です。
私は昔から筆まめで、手紙をよく書く人だったんです。親友のお父様が作家の永井龍男先生で、郵便箱から私からの葉書を見つけて愛読してくださるようになったのです。文芸春秋社を勧められて入社試験を受けました。最初は受付でしたが会社宛に来る投稿へ書いた返事が好評で、編集者として採用されました。
人生をリセットした アメリカ生活
アメリカ人と恋愛し、シングルマザーとして3人のお子さんを出産。
仕事に出るときに子どもたちから「行かないで」と言われたこともありますが、今無事に育った子どもたちに聞いても、そんなことは覚えていないですよ(笑)。子どもは淋しいだろうなんて親のうぬぼれで、いなきゃいないで大丈夫なものです。
『聡明な女は料理がうまい』(1976年)がベストセラーになり、そのご褒美として家族でアメリカへ。
40歳を前に人生をリセットするため、イースト・ハンプトンという世にも美しい高級避暑地で家を借りて、1年間子どもたちと向かい合いました。子どもたちが生き生きとしてすごくハッピーで、学校ではディスカッションも多く、自分の意見を言うようになりました。
言葉っていうのは全身全霊で対抗しないと敵わないわけですよ。日本にいるとさまざまな日本語が入ってきます。アメリカでは子どもたちにきれいな日本語を教えるため、かなり厳しくしました。お正月には百人一首など、日本らしいことをして過ごしました。
そのときのアメリカ報告『マザーグースと3匹の子豚』もまたベストセラーになった。
参加者からの質問に気さくに応える桐島洋子氏
バンクーバーで森を歩く
1年の約3分の1を過ごすバンクーバーでは、よくUBCの森を歩く。
雷に打たれた木があったりそこからまた新しい芽が出たり、生命の循環を目の当たりに感じます。森の中は人生そのものですね。住宅地を歩いて家を見るのも大好きだし。特別に遊ばなくても、楽しいですね。
ここは魚も野菜も日本に比べると豊かで、料理のやりがいがあります。ひとりでこもるのはよくないです。どうせ食べるなら誰かに食べさせたいという気持ちで料理をして、人を呼んで一緒に食べてこそおいしくなるわけです。
林住期を楽しみながら
4月に元夫の勝見洋一氏が死去。
亡くなったばかりでまだ立ち直っていないのですが、死が最後ではない、肉体がなくなっても霊魂というものがあるだろうとほぼ信じています。その人の個性というものがなくなってしまうのは淋しいですから『輪廻転生』を研究中です。
スプリチュアル・スポットにもずいぶん行きました。効果というより、自分が高揚しているので、精神的に元気な気分になります。(ペルーの)マチュピチュとか大好きで、行ってよかったと思います。
元気の元は好奇心でしょうか。人間が好きで、つき合いはどんどん広がっていきます。50歳で宣言した『林住期』は人生の収穫の秋ですから、一番いい時期なんです。思いっきり欲張って、なるべく林住期をゆっくり楽しみたいと思っています。
東京では自分史を中心として、そこに日本史とか世界史を絡めた講座『森羅塾』を開いています。人って集まることによってエネルギーが増幅していきますね。そのうちバンクーバーでも森羅塾をやりたいと思っていますので、よろしくお願いします。
7月に77歳になり8月末にはバンクーバーの友人・知人らに囲まれ喜寿を祝った(撮影 今泉慶子)
桐島洋子氏プロフィール
1937年7月6日、東京生まれ。文藝春秋に入社し、ジャーナリストとして活躍。1970年処女作『渚と澪と舵ーふうてんママの手紙』を刊行。1972年にはアメリカ社会の深層を抉る衝撃の文明論『淋しいアメリカ人』で第3回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するなどマスメディアの第一線で著作・テレビ・講演などの幅広い活動を行う。3人の子どもの子育てを終えてからは仕事を絞り、1年の3分の1をバンクーバーで過ごしながら、環境問題などにも関心を深めている。
(取材 ルイーズ阿久沢)