「自由貿易の敵と味方TPPと政治」

 

企友会(バンクーバー日系ビジネス協会)主催の講演会が9月4日、リステルホテルで開催され、早稲田大学教授の久米郁男氏が「自由貿易の敵と味方~TPPと政治」と題して講演した。早稲田大学で「久米ゼミ」を開講し、人は損得を考えて行動するということを前提に政治や経済の現象を講義する久米氏。今回の講演会では、環太平洋連携協定(TPP)に関係する経済理論や日本の政治の動きを解説し、豊富な知識と軽妙な語り口で約50人の聴衆を魅了した。

 

 

自身の研究成果を織り交ぜながら、政治理論をわかりやすく解説する久米氏

  

国益とは何か

 非常に高いレベルの自由化を目指す環太平洋連携協定(TPP)をめぐる交渉が続く中、日本国内ではこの取り組みについての支持と不支持が大きく分かれている。今年2月の衆院予算委員会において安倍首相は、農産物の重要5項目の保護を求めた衆参農林水産委員会の決議に触れて、「決議をしっかりと受け止め、国益を守るための交渉を続けていく」と語っているが、この「国益」とは何だろうか。日本の農家の利益を守ることは、国益なのだろうか。この問いが、TPPを考えるための重要な手がかりとなる。

 

取引の利益を生み出す自由貿易

 誰もが損得、すなわちコストとベネフィットを考えて行動している。人は得になることはするが、損になることはしない。取引が成立するということは、双方が得をするということだ。例えば、ある品物を5000円で売りたい人と、その品物を7000円で買いたい人が出会い、交渉し、6000円で取引をすれば、それぞれが1000円分の得をしたと言える。取引によって、世の中は計2000円分、良くなったのだ。この2000円を「取引の利益」と呼ぶ。政府の介入や干渉を受けない自由貿易が、このような取引の利益を生み出すのであれば、それは人々にとって良いはずだ。しかし、自由貿易には反発も大きい。なぜなのか。

 

自由貿易と経済学の考え方

 自由貿易に関係する重要な経済理論の一つは、比較優位と呼ばれる。この概念は、たとえ自国がすべての分野で他国より優れていたとしても、国内で比較的得意とする分野の生産に特化し、自由貿易をすることで、自国も貿易相手国も得をすると説明するものだ。しかし、現実には調整費用が大きいという問題がある。例えば、今まで米作りをしていた人が、自動車工場に転職するのは容易ではない。国際経済学では、労働力、資本、土地という三つの生産要素のうちで希少な要素を持っている人ほど、自由貿易によって損をすると考えられている。また、国内では、輸出に強い産業は利益を得て、輸入と競合する産業は損失を被ることにもなる。自由貿易によって損をする人と得をする人が生まれる。これを分配的帰結と呼ぶ。

 

 

リステルホテルの会場には約50人の参加者が集まり久米氏の講演に聞き入った

 

消費者意識と自由貿易

 消費者と生産者という観点から考えると、一般的に消費者は自由貿易によって得をし、生産者は損をする。国際市場における競争が、物品の価格を下げるからだ。久米氏が早稲田大学で行った実験では、スーパーマーケットや衣料品店など「消費の現場」の写真を見た後で自由貿易を支持するかどうか聞かれた人は、写真を見なかった人よりも、自由貿易への支持が高くなった。他方、工場や水田などの「生産の現場」の写真を見た後だと、写真を見なかった場合よりも自由貿易反対が多くなった。また、消費者刺激により自由貿易支持が強くなった人の属性に注目すると、特に低所得者の間で消費者刺激への反応が大きかった。低所得者は高所得者に比べて雇用の不安をより強く感じるため、本来ならば保護主義的であるはずだが、消費者の立場になると、高所得者よりも低所得者の方がより自由貿易を支持するようになるのだ。この結果は重要なことを示している。1930年代は世界大恐慌で保護主義が蔓延したのに対して、2008年の世界的な金融危機以降は、保護主義がそこまで広がらず、むしろ自由貿易への支持が高いのはなぜなのか。これは、消費生活の刺激を受けている人が増加しているためではないかと久米氏は分析している。

 

多数者に対する少数者の優位

 では、国民の大多数である一般消費者が自由貿易を支持すれば、政治はその方向に動くのだろうか。政治においては、少数者よりも多数者の意見が反映されると思われがちだ。しかし現実には、そうとは限らない。逆説的ではあるが、政治ではしばしば少数派が多数派より優位になるのだ。この大きな理由は、「ただ乗り問題」。多数者の間では、多くの人が他人任せになり、協力しない。その結果、少数派である農業従事者が団結して政治家に働きかけ、強い影響力を及ぼすのに対して、大多数を占める一般消費者は、その数に見合った影響を政治に与えないことになる。

 

選挙区制度の変化

 このような背景もあり日本政府は国内の農業を手厚く保護してきたが、近年は変化の兆しが見られる。日本の貿易政策は自由貿易を進める方向に舵を切っているのだ。これに大きな影響を与えたのは、1990年代の選挙区制度の改革。衆議院議員選挙は中選挙区制から小選挙区制主体へと変わり、多数派の支持が重要になった。中選挙区制では各選挙区から複数の議員を選出するため、特定の利益集団の票を取ることで当選できる場合もあったが、小選挙区制では一選挙区につき一人だけ選出するため、勝利するには多数派の支持を獲得する必要があるからだ。自由貿易に関しては、多数派は消費者になる。これは民主主義において重要なことであり、小選挙区制のもとでは少数派の意見が反映されにくくなる。久米氏が国会議員を対象に行った調査でも、小選挙区で選出された議員は、比例代表選出議員よりも消費者の声に影響されやすいという結果が出た。

 

自由貿易と安全保障

 日本の議院内閣制と小選挙区制が組み合わされた結果、近年は派閥政治が大きく後退し、首相のリーダーシップが強くなった。そして、TPPについて安倍首相は、党内の反対を押し切ってでも進めていきたいという意向を示してきた。安倍政権では、TPPを単なる自由貿易協定ではなく、とりわけ対中関係に関する日本の安全保障戦略と位置づけている。たしかに、過去50年間に世界で結ばれてきた自由貿易協定を分析すると、安全保障上の同盟関係にある国の間で自由貿易協定が結ばれやすい傾向がある。国民も、安全保障を意識すると、個人の損得だけではなく社会全体の利益を考えるようになる。久米氏が行った調査では、自分の雇用や所得にマイナスの影響を与えるとしてTPPに反対していた人が、中国の経済脅威を意識すると、その反対を弱めることがわかった。

 

公共財と政府政治不信の行方

 安全保障は、公共財だ。利用した人が費用を払う市場はなく、費用を払わない人の利用を防ぐ方法もない。私的財は個人が費用を負担して購入するものであるのに対して、公共財については政府が税金を集め、その税金を使って供給する必要がある。これが政府の大きな役割だ。  しかし税金に関しては、すべての国民が満足することはあり得ない。例えば累進課税制である所得税の税率について考えてみると、政府は中央値にあたる所得の人に合わせて税率を決める傾向があるが、そうすると中央値よりも所得が低い人や高い人にとっては満足できない税率となる。つまり政治とは、常に国民に不満を抱かれるものなのだ。そのためTPPに関しても、不満の声がなくなることはないという結論が導き出される。  質疑応答では、すでに二国間の貿易協定が多数存在する中でのTPPの位置づけや、TPPへの加盟を表明している他の国々にとってのメリットなどが議論された。複雑な政治と経済の動きも、誰が得をし、誰が損をするかという観点から考えると理解しやすくなる。早稲田大学で人気のエネルギッシュな久米氏の講義をバンクーバーで聴ける貴重な機会に、参加者は大満足の様子だった。

 

 

バンクーバーで講演した早稲田大学教授の久米郁男氏

 

久米郁男氏 プロフィール

京都大学法学部卒業。コーネル大学で政治学博士号を取得。神戸大学法学部教授を経て、現在、早稲田大学政治経済学部国際政治経済学科教授。UBCヨーロッパ研究所客員教授として、2012年から2年間バンクーバーに滞在。    

(取材 船山祐衣)

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。