平成26年度外務大臣表彰授賞式

 

在バンクーバー日本国総領事岡田誠司氏(右)と表彰状を授与された弊社津田佐江子社主(左)

 

 9月25日、在バンクーバー日本国総領事公邸で、平成26年度外務大臣表彰授賞式が開催された。受賞したのは、津田佐江子弊社社主。

 表彰状を授与した岡田誠司総領事は、「今年、在バンクーバー日本国総領事館が125周年を迎えるにあたりさまざまな資料を調べていくと、日本からの移民の歴史の中で、日本語新聞がコミュニティのまとまりに大きな役割を果たしてきたことがわかります。バンクーバー新報は、1978年に創刊以来、36年間、発刊を続けてこられ、コミュニティの連携ばかりではなく、日本とカナダの友好親善関係に寄与してこられました。その功績をたたえたものが本賞です。受賞、ほんとうにおめでとうございます」とスピーチした。

 津田社主は、「ありがとうございます。これまで続けてこられたのは、多くの方々の支えがあってのことです。思い起こせば、幾多のことに直面してきたことでしょう。創刊間もない32年前、手書きから和文タイプに変えようと決断し、日本からタイプライターを取り寄せるとき、税関への説明が大変。このとき通訳をしてくださったのが、ロイ上田さんでした。『これはタイプライターではないから無税』という交渉を勝ち取ってくださいました。資金不足の当時、どれほどありがたかったか…。こうしたことは枚挙にいとまがありません。この受賞は、私へというよりもみなさまへのものです。ほんとうにありがとうございました」。まさに感極まる返礼スピーチであった。

(取材 笹川守)


 

バンクーバー新報の歴史  読者と共に歩んだ36年

 

9月26日、バンクーバー新報社社主の津田佐江子による「バンクーバー新報の歴史:報道から見た日系人の歴史」と題する講演会がバーナビー市の日系センターで行われた。在バンクーバー総領事館が主催し、日系センターが共催した。 1978年の創刊から36年間バンクーバー新報を発行し続けた津田の功労に、講演前日の9月25日、外務大臣賞が授与された。当日会場には岡田総領事を始め各企業の関係者の他、受賞を祝福する友人、長年の新報読者、新報スタッフなど約130人が集まり熱心に聞き入った。

 

 

講演開始20分前には会場にたくさんの人が訪れ、席も追加された

  

きっかけは「日本の情報がほしかった」

 冒頭の挨拶で、在バンクーバー日本国総領事岡田誠司氏は津田の外務大臣賞受賞を祝福し、「現在カナダで邦字紙はバンクーバー新報だけです。これからも新聞の活動を通じてますます日系人コミュニティーに貢献してほしい」と述べ、「総領事館の歴史の検証作業においても新聞の果たした役割は非常に大きく、今回の講演会は自分自身とても楽しみにしている」と加えた。

 津田は挨拶で主催の礼を述べ、最初にバンクーバー新報が創刊された頃の背景を説明した。カナダは1967年に移民法がポイント制に改正され、日本人をはじめアジア人も移民できるようになった。1971年、カナダ連邦政府は国勢調査の結果、カナダの人口はこれまでの英仏以外の人種が26パーセント存在するという認識を得て、1972年に多様文化主義を導入。1974年に隣組、1977年にグレーターバンクーバー移住者の会が結成された。また日系人が移民してから100周年を記念してカナダ国内の各地の日系社会で100年祭が催され、バンクーバーではパウエル祭が開催された。当時は一戸建ての家が5万ドルくらいでも買うことができ、最低賃金が2.75ドルの時代だった。そんな中で1978年バンクーバー新報第一号が、ガリ版刷りで創刊された。当時はバンクーバー近辺の日系人はトロントやシアトルなどからの新聞を購読しており、バンクーバーには新聞はなかった。第一号の紙面ではプロゴルファーの青木功選手が賞金で世界一だと報道された。

 ニュースの情報源としてまず、管制塔に連絡してバンクーバー近辺の5つの港へ到着する日本の船のスケジュールを調べ、港に停泊中の貨物船の船舶通信を分けてもらい、その中からバンクーバーの人に興味のありそうな情報を選んだ。最初は鉄筆で紙に書いてインクをつけるガリ版刷りだった。当時のバンクーバーの日系人街パウエルストリートには日系のお店がたくさんあった。美浜屋など日系商店に新聞を無料で500部置いてみると、あっという間になくなった。

 新聞名のバンクーバー新報は当初の「バンクーバー」、「晩香波」、「晩香坡」を経て現在のようになった。活字も最初はポータブルの和文タイプライターだった。次に明朝体とゴシック活字の書かれた紙活字を日本から買い、コピーをとり、字を切りとって糊で張りつけていく作業でタイトルを作った。その後、ワープロとなり、マッキントッシュのパソコンになる。記事の裏にワックスを塗り、台紙に貼り付け、それを印刷所まで持って行った。現在のアップルになってから手作業がなくなり、印刷所までファイルで送れるので「とても便利になった」と語った。

 また、バンクーバー新報には1979年7月から1983年10月まで毎週英語のページが1ページ印刷された時もあった。

 

 

客席からの質問に応じる津田社主

 

共に歩んできた日系人の娯楽について

 「年忘れ紅白歌合戦をおぼえていらっしゃいますか?」という津田の問いに微笑む人がいて、「ここには歌の上手な方がたくさんいらっしゃいますよね」と続けると、うれしさをこらえきれないような笑いが起こった。映画館の話題では、寅さんシリーズ「男はつらいよ」や高倉健さんの「網走番外地」などに大勢の観客が詰め寄せ、「帰りは皆右肩上がりだった」という説明にも会場は大爆笑だった。 

 またバンクーバー新報が創刊された翌年に新報社主催のソフトボール大会も始まった。31年間続いたソフトボール大会は、始め約8チームの参加だったが、人気が出て日系人のメイン娯楽に発展した。日系人の職業柄、ガーデナーズA、 B、 C、 にスプレークラブもあり、90年の全盛時代は16チームあった。「ストライク」、「いやボールだ」というようなチーム同士の取っ組み合いも見られるぐらい熱が入っていた。パウエルのグランドを中心に行われ、スライディングは骨折者が出て中止になったエピソードや、31年目の最後の優勝チームはヤマト・トレーディングだったという説明に、時代を知る人たちから拍手がわいた。毎年行われたこのソフトボール大会は、多くのボランティアによって支えられた。

 

日系社会の移り変わり

 1980年頃の広告では日系人の男性は庭師、女性はウエートレスの募集が多かった。1985年はカナダ政府から意識的に多様文化を宣伝する広告がたくさん入り、翌1986年に万博が開催された。約90カ国の参加国を、新報は毎週違う国のパビリオンを回り紹介した。期間中、日本館にも延べ300万人以上の来館があった。バブル景気の頃は旅行者が急増し、日本からの旅行社のバンクーバー支店も多く開業された。また、1986年は中曽根首相が来加してワーキングホリデー制度を発表。パン・パシフィックホテルのオープンなど日系企業も活性化した。レストランや土産物店も増え、求人広告にも職種がウエートレスの他にセールスクラーク、ツアーガイドも出るようになる。特に1996年は72.9万人(JTB資料)が日本から来加し、旅行者のピークでもあった。移住者も1980年は年間100人程度から1994年は1000人、そのうち女性が1/3を占め、国際結婚の増加も理由にあげられた。  日系人の大きなニュースとして戦時中の強制移動と財産の没収に関してのカナダ政府からの補償問題解決があり、一人に付き2万1千ドルが支払われた。当時は該当する日系人に申し出るようにという広告もバンクーバー新報に掲載された。

 津田の自宅のベースメント時代から、バンクーバー新報社もパウエルストリートの商店など約6回の移転の後、現在の自社ビルが完成し入居した。

 

 

 

 

在バンクーバー日本国総領事岡田誠司氏と津田社主

 

「便利屋」と「はちきん」の 由来

 同じ頃朝日新聞は津田を「便利屋に徹する」と紹介。当時、新報に多くの人がいつも話をしに訪れた。話を聞いてもらうために人が集まった。人の悩みはうれしいことではないが、お話をするのは楽しかったと津田は言う。

 また広島の中国新聞では「はちきん、新移住と共に成長」と紹介された。「はちきん」とは強くて情が深い土佐の女性のことである。出身地の高知新聞でも「単身で渡って久々に帰郷」と大きく取り上げられ、他に毎日新聞やNHKなどの取材にも応じた。

 しかし良い事ばかりでもなかった。1997年に貸し部屋などの広告が増えると、地元の人による日本からの学生やワーキングホリデー狙いの悪質な詐欺まがいの事件が発生した。前払いの家賃と半月分のデポジットを取り騒音を立てて2、3日で退居するように仕向けるものだった。その頃、新報の告知板の広告料は4週間掲載で10ドルだったが、その間に同じ広告主から2人目の被害者が出た。津田は即座にその広告を取り下げて、広告主に10ドルのチェックを返した。しかし数日後、「広告の契約はすでに成立していた」として、広告主が1万ドルを要求して起訴してきた。結果は「契約は成立していた」として敗訴となり4000ドル近くの出費だった。「自分も学んだ。でも被害が食い止められてよかった」と「はちきん」らしく振りかえる。そしてその頃には、移住者の会による、やさしく一般向けに説明された法律講習である「ピープルズ・ロースクール」が連載されていた。

 

日系コミュニティーが盛り上がった良き時代

 日系センターがオープンすると同時に、これまでの隣組、日系団体、日本語学校などのイベント・スケジュールの他に、日系センターのお知らせやコミュニティー情報を掲載するようになった。特に文芸欄の児童の作品は津田のお気に入りである。2002年からは若い読者向けにパート2を増刷して無料で配布するようにもなった。

 マルチカルチュラルチャンネルの後、ローカルTV局のアイカステレビ(ICAS)があった時代には、ICASと共催で「新報杯カラオケ・チャンピオン大会」や「大相撲カナダ場所」、「NHKのど自慢大会」の勧誘・開催などコミュニティーが一つになって大いに盛り上がった。また2009年の天皇・皇后両陛下のご訪問や、2010年のバンクーバー五輪なども良い思い出として紙面と共にふりかえった。東日本大震災が発生した直後、バンクーバー新報は「がんばれ日本」キャンペーンを企画し、広告スペースを提供し、集まった金額1万3340ドルをカナダ赤十字に東日本大震災へとして寄付した。バンクーバーで行われたさまざまなサポートのチャリティーコンサートの記事を通して、「日系人の日本を思う気持ちには熱いものがあります」と語った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後に、外務大臣賞受賞について聞かれると「あれは昨日の事なので」と照れながら「みなさんのおかげです。私一人でやったわけではありません」と応えた。また、会場からは何度か祝福のメッセージが聞こえた。最後に岡田総領事の、「これからも続く日系人の歴史と共に、バンクーバー新報も号を重ねていっていただきたい」という言葉で講演は幕を閉じた。

 

 会場のスライドに36年分の新聞の写真があった。黄色く変色して積み重なった新聞は津田と共に36年間力を合わせて支え続けてくれたスタッフやボランティアの努力を感じさせた。また、バンクーバー新報の順調な発展を支えた要因の1つとして、当時1972年にカナダ連邦政府が導入した多様文化主義政策が、国内のエスニックプレスの発展を後押ししたと考えられる。新聞社をやろうと思っていたわけではない。ただ読者が楽しみにしてくれているからここまで来られた。そんな津田に「感謝しております」という会場からの言葉は大きく響いたに違いない。

      

(取材 ジェナ・パーク)

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。