コスモス・セミナー特別企画

『日系カナダ人の歴史』

〜「海を渡った日本の村」三世代の変遷の物語〜

講師 長崎県立大学教授 山田千香子氏

 

9月10日、日系センターで今期初めてのコスモス・セミナーが開催され、バンクーバー日本国総領事館開館125周年記念行事の一環として特別企画で、長崎県立大学教授、山田千香子氏が『日系カナダ人の歴史〜「海を渡った日本の村」三世代の変遷の物語〜』と題する講演を行った。

 

 

山田千香子・長崎県立大学経済学部地域政策学科教授

  

 冒頭でコスモス・セミナー主宰の大河内南穂子さんから長年の友と紹介を受けた山田教授は、著書『カナダ日系社会の文化変容―「海を渡った日本の村」三世代の変遷』でカナダ政府より第10回『カナダ首相出版賞』を受賞。明治時代、和歌山県三尾村から海を渡った日系移民の生きざまや帰加二世と呼ばれる人たちの特徴などについて、出席者約90名が興味深く聞き入った。(以下は講演からの概要)。

 

移民調査の背景

 「移民という言葉を聞きますとよく『貧しくて』といったイメージが付いてまわることがありますが、そういうところではなく、かなりユニークな場所でもあります」と、山田教授は和歌山県美浜町三尾村を紹介した。

 まず村の調査に3〜4年かけ、1995年からバンクーバーとトロントで約半年ずつ、181名のインタビューを行った。その集大成が著書『カナダ日系社会の文化変容―「海を渡った日本の村」三世代の変遷』である。 「明治時代、和歌山県の小さな村からカナダに渡った人びとの生活様式、考え方、行動様式がどう変化するかというもので、出身地を限定して調査いたしました」。

 

 

コスモス・セミナー主宰の大河内南穂子さんと山田千香子教授

 

三尾村の状況

 三尾村の通称は『アメリカ村』。明治時代の初め、日本人にはカナダという認識はなく、アメリカ大陸として知られていた。「カナダは東京より近いからね、とおっしゃる方がいました。これはいかにカナダが心理的に近かったということなんですね」。

 昔から海を伝わって多くの人が紀伊半島と房総半島とを行ったり来たりしていた。農民は農地を離れることはできないが、漁民は土地を一時的に離れることに抵抗がなく、それが移住にもつながった。「スティーブストンが漁村ということで、三尾村との共通性があったのです」。

 

海を渡った中間階層

 三尾村出身の工野儀兵衛は1888年「フレーザー河に鮭が湧く」とまず兄弟を呼び寄せ、親族、村人が続いた。隣村からはあまり移民は出ていない。「その点からも三尾村民の結びつきの強さがわかり、カナダで助け合っていくこととつながります」。

 当時の三尾村の人びとは、4階層に分かれていた。着物を着て袂があるような長袖層、旦那衆や村長、住職、神主、医者、駐在から移民は出ていない。一番上のクラスは出稼ぎに行く必要がなかったのと、重要な地位にあり動けなかったからかもしれない。一方、下層の場合は行くお金がなかった。つまり海を渡った人たちは中間階層が多く占め、必ずしも貧しい階層ではなかったことがわかる。

 昭和元年(1926)、カナダの三尾出身者の人口が村の人口よりも上回った。1888年から1930年までの間に、約2000人近くが三尾村からカナダに行った経験があった。

 

三尾村における一人前とは

 少なくとも5〜6年はカナダと三尾村を行き来し、その結果、経済的な力を確保し、中層から上層へ地位も上がっていった。移民経験は修業の意味を持ち、大きく評価された。大正10年の議員の記録では10人枠のうち8人が移民経験者だった。

 見習い奉公に出て三尾弁を正し、基本的な生活全般について学ぶ。これは一人前になるための村の習慣であり、カナダへの移民は修業のひとつになった。

 結婚はまず身内から。いとこ婚が良い縁談だと考えられ、その次の候補が隣近所だった。村策共同体の慣習に従って個人の家を守り、村の繁栄を重視した。

 

カナダの三尾村と三尾のアメリカ村

 春にカナダに渡り、1年おきか3年に1度、漁が終わる秋に三尾村へ帰る。スティーブストンでは父子家庭で、三尾弁や村の秩序がそのまま維持され、紀州の茶がゆを食べていた。親戚を頼って来るので、従兄弟同士の関係が強かった。

 故郷三尾村では送金によって寒村から洋風建築で立派な御殿が建ち、人びとは洋装、英語まじりの言葉を話した。三尾は母子家庭であり、アメリカ後家と呼ばれる三尾の女は留守を守ってしっかりしていると言われた。

 日本人を両親としてカナダで生まれ、親の希望で日本に送られて教育を受けたあと、再びカナダへ帰ってきた人たちを帰加二世と言う。たいていが長男長女。

 1939年(昭和14)、三尾小学校の55パーセントの子どもはカナダ生まれだった。言葉、価値観、行動力、アイデンティティーの面では一世に近い。ある意味では一世よりももっと日本的で、なかなか頑固とよく形容される。

 

 

第10回『カナダ首相出版賞』受賞作『カナダ日系社会の文化変容「海を渡った日本の村」三世代の変遷』(御茶の水書房)

 

第二次世界大戦と日系人

 真珠湾攻撃を機にカナダ連邦政府は日系人を敵性国人とし、1949年3月31日まで7年4カ月、23000人の日系人が強制収容された。その75パーセントがカナダ生まれの二世、三世であり、このことが彼らにカナダに対する疑問を与えた。1945年3月、16歳以上は日本に行くか国外追放、ロッキー山脈以東へ強制移住させられ、1946年には政府により財産没収と売却処分が行われた。

 三尾村への帰還は424名。三尾の食糧難、住宅難、人口過剰により「人生で最もつらかったのは日本に戻ったとき」と話す人が多い。

 戦後、スティーブストンに戻り漁業を再開した漁師は1949年、3カ月で5000ドル(1ドル360円の時代)を稼いでいた。

 

日系カナダ人として

 明治育ちの一世はあくまでも日本の伝統的価値と行動様式を重視。親孝行、人種的誇り、遠慮、我慢、日系社会の中で強い『恥』の意識を持っていた。

 二世として一番大きな傷は強制収容の体験。日系であることに恥の意識を感じ、目立たないようにすることから内向的になった。誕生により市民権を持っていたが、1949年3月まで専門職につくことはできなかった。

 帰加二世は自分だけ日本に行かされたという疎外感もある。

 三世はカナダ人として生きてきて、12〜13歳で身体的な特徴から白人と違う自分自身をどう受け入れるかで悩んだ。

 いずれにせよ、日系であることを肯定的に受け止められるようになったきっかけには、1971年のカナダ多文化主義政策、日本の経済大国への地位、日系人が多くのカナダ社会で活躍していること、1988年日系人補償問題の解決の4項目があげられる。

 

カナダ日系社会のこれから

 山田教授はノブオ・クボタさん(二世)の詩を朗読し「自分が誰なのかと悩んできた過程というものが象徴された詩だと思います。生まれて初めて最も自分らしい自分になった、と締めくくっています。皆さんも自分が活かせ表現するのにもっともふさわしい場所として、カナダを選ばれたと思います。そこが住み良い場所というものではないかと考えています」と述べた。

 

 「一世、二世、帰加二世、三世の特徴の説明が興味深かった」「各世代が戦争を通して探ったアイデンティティーというものを知った」「先人たちが勤勉に生きてきたことで、今日の日系社会が過ごしやすいものであることに感謝したい」などの感想が聞かれる感慨深い講演であった。

 

 

日本列島を2つに分けると、西南型と東北型とに分類されるという。西南型人間の特徴は隣近所が組織を作り、助け合い話し合う横の関係。東北型は親分子分、本家分家など縦の関係。「みなさんは西南型ですか、東北型ですか」と山田千香子教授

 

山田千香子(やまだ・ちかこ) お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科修了、博士学位(学術博士)取得。放送大学、大東文化大学、川村学園女子大学、東京国際大学などの非常勤講師を経て、1999年に長崎県立大学経済学部地域政策学科教授就任、現在に至る。文化人類学や文化政策論を専門とする。また同大学付属図書館館長等を務める。現在は社会活動として、長崎県労働委員会の公益委員、長崎県文化財委員、裁判所の家事調停委員などを務めている。

    

(取材 ルイーズ阿久沢)

 

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