1889年に開設した在バンクーバー日本国領事館について、当時の外交文書の検証をもとに講演した岡田誠司総領事。スライドはバンクーバー初代領事杉村濬(ふかし)氏

 

岡田誠司総領事の講演

1889年、カナダにおける日本の最初の在外公館として開設した在バンクーバー領事館について、岡田誠司総領事が当時の外交文書の検証をもとに講演した。

 

領事館開設までの記録

カナダに領事館を開設するための外務省での公文書を見ると、最初の文書ではビクトリア市がまず候補にあがっていたことがわかる。しかし、決裁の過程でそれがバンクーバーに変更されている。1880年、帝国海軍の練習船『つくば』が練習生、乗員、通訳など338人を乗せてバンクーバー島のエスクイモルト港に公式寄港した記録があるようにビクトリアはBC州の州都であり、領事館開設にあたり最初は州都であるビクトリアがその候補地であった。しかし1885年に大陸横断鉄道がバンクーバーまでのびたこと、また当時アメリカ領事館がビクトリアからバンクーバーに移転したこと等を理由にバンクーバーに開設することが最終決定された。その後のバンクーバーのアジアのゲートウエーとしての発展ぶりを見ると、正しい判断であったと言える。

明治天皇の任命を受けて1889年(明治22年)、杉村濬(ふかし)がバンクーバー初代領事として着任。当時の外務大臣大隈重信による委任状がある。

在バンクーバー領事館(当時)はカナダで初の在外公館として、バンクーバー市内609ハウ(Howe)ストリートに開館した。同じ通りの並びにアメリカの領事館もあった。

 

移民事業に務めた初代領事

杉村領事が着任したときの最大の懸案事項は何であったか。当時の外交文書を見ると人頭税問題である。当時、中国人がカナダに移民するにあたり、ひとり50ドルの人頭税が課せられていたが、日本人には人頭税は課せられていなかった。1891年に日本人移民にも200ドルの人頭税課税という話が持ち上がった。杉村領事は外務省にこの問題点を報告し、メディアを利用した移民施策を立てた。新聞にこのような議論がバンクーバーであることを伝え、日本人の移民の質を高めることを提案した。

そのためにも杉村領事は日本国内で移民申請を取り扱う会社を設立し、バンクーバーにその支社を置き、移民の受け入れ態勢を保護すること。またバンクーバーに農地購入斡旋会社を作り、農地の管理にも努めた。そして各県に移民会社の設立の話を持ちかけた。これが和歌山県人会、滋賀県人会などの県人会発足に至る経緯である。

バンクーバーには3000人から5000人の中国人が存在していた。しかし中国人はダウンタウンに住めず、土地を持てず、公務員になれないなどの規制を受けていたため、彼らは集まって助け合いながら生活してチャイナタウンを形成した。

その頃のバンクーバー居住の日本人の数は200人であったが、生活水準は中国人以下であった。そこで杉村領事は中国人差別の理由を分析し、その結果リーダーとなる日本人が必要であるとともに4つの条件を提示した。一つめはカナダの社会に溶けこんで生活することが大切、二つめは英語を学ぶこと、三つめはクリスチャンになること、そして四つめに貯蓄の必要性を東京に提示した。

 

在バンクーバー日本国領事館(当時)は1889年(明治22年)、カナダで初の在外公館として、バンクーバー市内ハウ・ストリート(609 Howe)に開館。同じ通りの並びにアメリカの領事館もあった。左手前に日の丸の旗が見える

 

二番目の懸案事項は、3代目の鬼頭領事の時代のことである。日本からの移民も増え、日本人移民はカンバーランドやナナイモの炭鉱で職に就いたが、安全基準を無視して危険な仕事もこなす働き者の中国人が経営者からは重宝された。このようななか、白人炭鉱労働者はこれに対抗するためにBC州政府に働きかけ、中国人炭鉱労働者を締め出す提案を出したが却下された。この状況を元に鬼頭領事は、優秀な技術を持った日本移民を排斥するのは良くないと説得している。この結果、BC州議会においては日本人炭鉱夫の優秀な働きぶりを認め、白人炭鉱労働者の主張は単に外国人労働者を閉め出したい白人労働組合の言いがかりだとして却下されるのである。

 

カナダに領事館を開設するためにやりとりされた外務省に残る公文書

 

 

スイツァー夫妻の講演

アン・リー&ゴードン・スイツァー夫妻が、BC州における日本人とカナダ人の最初の接触、そして同州での最初の日系人コミュニティの設立について年代を追って説明した。

 

日系移民第1号の記録

1600年代には日本の難破船がメキシコのアカプルコに流れ着くなど、19世紀以前にすでに多くの日本の難破船がカナダBC州沿いのヌートカ・サウンドやクイーン・シャーロット島(現在のハイダグアイ)で目撃されていた。

1833年、14人の乗務員を乗せた『宝順丸』が遠州灘沖で嵐に巻き込まれて遭難。漂流した3人の若者(岩吉、久吉、音吉)がオリンピア半島のポイント・ゲレンデヴィルに流れついている。

1860年に初めて日本の日用品が到着し、ビクトリアで販売された。

1877年、永野萬蔵がビクトリアに上陸(孫のポール永野談)。

1921年になって初めて、永野萬蔵がカナダに上陸した最初の日本人であるとの説が伝えられた。

1884年、外務省は労働者にもパスポートを発行。(それまでは商人か学生のみ)。横浜で商人チャールズ・ガブリエルに会ったミクニ・キスケがビクトリアに来てガブリエルが経営する日本雑貨店で働いた。ガブリエルは後に出稼ぎ労働者を含む多くの日本人の世話をした。

1886年、バンクーバー市制執行。バンクーバーの人口1000人に対して、ビクトリア市は1万人であった。

1888年、和歌山県三尾村から工野儀兵衛がスティーブストンに定着。三尾村人の呼び寄せが始まり、10年後スティーブストンの日系人の人口は2000人となりカナダで第2の日系人町となる。

1889年、オオヤ・ワシジの妻ヨウコがカツジを出産。日系2世第一号となる。

1895年、ソルトスプリング、メインほかのガルフ・アイランドに日系人が移住。  1901年のカナダ国勢調査によると日系人の人口は4738人。

1904年、フジノ・クメキチがミッションに30エーカーの土地を購入し、いちご栽培を開始。フレーザーバレーでの最初の日系農夫となる。  1906年、アレキサンダー通りに日本人学校開校。  

1907年、明治天皇のいとこにあたる伏見宮がバンクーバーとビクトリアを視察。同年、中華街とパウエル街が白人によるアジア人差別の暴動が起こる。

 

講演をした(左から)岡田誠司総領事、歴史研究家のゴードン・スイツァー&アン・リー夫妻。パネリストで参加したベス・カーター氏(日系博物館)、ゴードン門田氏

 

講演後は一般参加者も加わったパネルディスカッションや質疑応答が行われた。 パネリストとして出席したゴードン門田氏は『宝順丸』を題材とした三浦綾子の小説『海嶺』が後に映画化され、フォート・ラングレーで撮影されたことを報告した。

ゴードン・スイツァー氏は、永野萬蔵がカナダに着いた最初の日本人という説には文書での証明がないと提唱する(著書『GATEWAY TO PROMISE: CANADA'S FIRST JAPANESE COMMUNITY』TI-Jean Press参照)。だが萬蔵がビクトリアで商売を営み雇用をなし、日本人社会で尊敬された存在であったこと、ビクトリアの良き市民であったことは大きく評価されるべきである。また連邦政府地図委員会がBC州にある標高1995メートルの山を『マウント・マンゾウ・ナガノ』と命名したことも、他の日本人にはない功績であると結んだ。

 

(取材:ルイーズ阿久沢)

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