メリーさんとシゲキヨ・キヨオカさん夫婦は、7人の子どもたちに恵まれた。次男は、1970年の大阪万博でカナダ館の彫刻を手がけた芸術家で、1978年に日系文化人として初めてカナダ勲章を授与された、ロイ・キヨオカさんだ。『カナダに渡った侍の娘』は、ロイさんが母親の人生を聞いてまとめた、『Mothertalk』の翻訳で、メリーさんを中心に初期の日系移民たちの生き様が鮮やかに描かれている。
1994年に亡くなったロイさんに代わって、ロイさんの娘、フミコ・キヨオカさんに話を聞きながら、『カナダに渡った侍の娘』で鮮やかに描かれた、メリーさんの生涯をたどってみた。
メリーさんと大江正路さん。メリーさんによると、攘夷事件を起こした土佐藩士が切腹させられたとき、介錯を行ったのが大江さんだ。強い精神の持ち主だったようだ
父のミステイクで結婚
メリーさんの父、大江正路さんは、「長谷川流居合(※編注)の最後の大名人で山内家の師範だった」という。調べてみると、ウィキペディアにも登場する著名な人物で、「明治の世になり、藩外不出だった英信流を全国に広く伝えていて、これが英信流の現代居合道の礎になったとされる」とある。幕末の四賢侯の一人と称された、山内容堂の孫、山内豊健を指導したほどの人物だ。
(※編注)長谷川流は、英信流の別の流派名。
その大江正路さんの娘であったメリーさんが、カナダに来ることになったのは、「父が大きなミステイクをした」ためだという。「アメリカやカナダでは女が大切にしてもらえると信じて」いて、「父はあたしの幸福だけを願って、あたしがカナダに行くべきだと決定した。そうすればもっと自由があるからというわけ」だ。
女学校(高校)を卒業したメリーさんには、医者など裕福な人との縁談があったが、大江正路さんは、積極的で大胆なメリーさんには合わないと考えた。そして、「ワイフを探しにカナダから帰ってきている」、「勉強も剣道もできる男」に嫁がせることにした。この人なら新大陸で成功して、金持ちになって帰ってくるだろうと期待したのだろう。
見合い結婚をしたメリーさんとシゲキヨさん。メリーさんはシゲキヨさんを「パパ」と呼び、シゲキヨさんはメリーさんを呼ぶときは「おい」。長い結婚生活の間、二人は名前を呼び合うことはなかった
若さとエネルギーで生き抜いたビクトリア時代
当時、カナダに渡った日系人の暮らしは決して楽ではなかった。また、メリーさんの夫であるシゲキヨさんがカナダに来たのは、「女と酒が好きで、隣町の悪い女に先祖代々の山林をつぎ込んでしまった」のと「無能な父親に愛想を尽かしたから」だ。大江正路さんは、そんな事情をまったく知らなかった。
メリーさんがカナダに来たとき、シゲキヨさんはビクトリアのエンプレス・ホテルのそばのクラブで働いていた。親が何もさせなかったので、カナダに来るまではお米も炊いたこともなかったというメリーさんも、アメリカ人家庭の子守の仕事を得た。日本の童謡を教えて、いっしょに英語を習う毎日だった。また、シゲキヨさんが、ドライクリーニングの店を始めてからは、服の直しもした。そのうちに、長男のジョージさんが生まれる。家事に育児にと疲れきった日々の生活の中で、二人目の子どもを妊娠する。
ビクトリアで暮らすメリーさんに、大江正路さんから、「決して金を送ってくれるな」と手紙が届いている。送ろうにも送る金はなかったという生活だったが、大江正路さんは娘が豊かに暮らしていると信じていたのだろう。しかし、「侍の娘が日本語の通じない世界で、酒飲みのハズバンドといっしょになって、したこともない仕事をそでをまくって何とかこなして生き延びた」のが実際だった。
高知へ一時帰国、一生で一番幸せだった日々
貧乏暮らしだったが、メリーさんは長男のジョージさんと日本に帰っている。病気だった大江正路さんから、顔が見たいとの手紙が届いたためだ。二人目の子ども、満里子さんは、メリーさんらが日本滞在中に生まれた。
メリーさんの話に何度も登場する大江正路さん。どれだけ大切に思っていたかよく分かる。そのお父さんの世話をするのは、随分、楽しかったようだ。もうカナダには帰りたくないという気持ちもあったという。カナダでの暮らしを大江正路さんに聞かれて、正直に答えると、二人の子どもたちを清岡家に返して、家に戻って来いとまで言われる。
日本で幸せな毎日を送っていたのだし、父親の言うとおり、カナダには戻らないという選択をしたほうが、楽だっただろう。しかし、芯の強いメリーさんは違った。「子どもを渡すなんてとんでもない」「あたしたちの生活が苦しいのは、パパとあたし以外の誰のせいでもない」と、シゲキヨさんのところに戻る。メリーさんらが日本にいる間に、シゲキヨさんはムースジョーに移ることを決めたため、生活が落ち着くまでとの約束で、子どもたちを日本の祖父母に預けて、カナダに帰ってきた。
メリーさんと末っ子のアイリーンさん。日本に残していた満里子さんを迎えに京都に行ったときの写真。満里子さんはカナダ行きを拒否したため、結局、二人でカナダに帰った
ムースジョーからカルガリー、オパールへ
ムースジョーに着いたのは1920年代だったようだ。景気がよかった時期だが、手に職のない人は、最低賃金で働かされた。メリーさん夫婦もロイヤルホテルで、必死で働いた。そのうち大恐慌が始まり、夫婦の勤務先、ロイヤルホテルが倒産する。失業した一家は、カルガリーへ向かう。
カルガリーではシティホールの向いにあったマーケットで、果物と野菜を売る店を経営したという。「グランビルアイランドのパブリックマーケットのようなところで、店を出していました」(フミコさん)。「祖父はあまりこの仕事は好きではなかったようで、祖母が切り盛りしていました」
オパール時代のメリーさんと6人の子どもたち。日本で生まれて、40歳ぐらいまで家族に合流することがなかった満里子さんは写っていない
厳しいカルガリーでの生活は、満州事変でさらに難しいものになった。仕入れ先である中国人農家が野菜を売ってくれなくなった。以前は仲良くしていた中国人の店主からも、つまはじきにあってしまう。カナダで暮らし始めて20年余り、「やっとカナダ人らしく感じ始めた頃に」、日本の真珠湾攻撃で、『ジャップ』と呼ばれて差別を受けるようになる。
フミコさんは、当時カルガリーにいた日系人の状況について、「祖母たちは西海岸にいた日系人とは異なり、強制収容所に送られるようなことはありませんでした。でも、差別を受け、仕事を失ってしまったのです」と語った。
メリーさん一家も例外ではなく、暮らしに行き詰まった結果、エドモントンの北にある村、オパールに移った。友人が「どうしようもなくなったら来るようにと呼んでくれたのだ」。やっと戦争が終わり、末っ子以外が家を出たため、農園を売って、エドモントンに出てきた。二人とも歳をとっていたが、食費を稼ぐ必要があった。シゲキヨさんは80歳まで、メリーさんは70歳まで衣服工場で働いた。そして、1996年にエドモントンで100年の生涯を閉じた。
ロイさん一家。ロイさんは、あまり日本語ができず、通訳者を介してお母さんのメリーさんのインタビューを行った。ロイさんは白人女性、モニカさんと結婚したが、モニカさんの両親は、日系人との結婚に反対だったという。「初めて祖父母と会ったのは7歳ぐらい、スタンレーパークでのことです」(フミコさん)
参考文献 『カナダに渡った侍の娘』 ロイ・キヨオカ著 増谷松樹訳 草思社
(取材:西川桂子)