日本庭園の伝統を受け継ぎ、そして…

 日本の庭園は、その時々の生活習慣の変化により、変化、発展してきた。まず、その歴史を振り返ってみる。
 庭とは、建物回りの空間、人が生活する時の作業の場所を心が休まるように、また来客時にもてなすことができるように快適に暮らすための家を守る機能もあわせ持ち、熟練した職人の持つ技術を生かし、合理的に使い勝手よく整備したのが始まりと考えられる。
 古来の自然崇拝と大陸から伝わった文化が加わり、美しい自然景観を庭園に見立てて造られるようになった。平安時代に著された『作庭記』では、その方法が具体的に書かれている。
鎌倉、室町時代に入ると、公家の寝殿造庭園から浄土式庭園が続く一方、禅宗文化の芽生えとともに周辺の自然を生かして庭園が造られるようになった。その中で夢窓疎石は、自然のままではなく、素材の石組みだけで一つの空間を作るなど、自分なりの自然観で自然を再構成した庭園を造った。武家文化が発展するとともに、市中では都市化が進み、町衆文化が発展し、書院造の建物に付随した庭園、枯山水庭園、茶庭などが現れてきた。あらためて考えてみると、今、日本庭園に当たり前のように使われている燈籠などの石造物は、茶庭が造られるようになってからのこと。それまで寺院の灯り取りとして使われていたものを庭園に取り込んだものである。
 書院造庭園では、それまで地域の素材を生かし造られていたものが、地方との流通が可能になったため、大きな石を遠くから運び、珍しい素材を使うなど、権力を象徴する豪華絢爛な庭園が造られるようになった。天皇家の離宮の庭園では、うつろいゆく四季の変化のなかの美を思い、生を感じる思念や、侘び寂びの美学を好み、自然を通してあるべき理想の美を造形化しようと試みられた。大名庭園では、庭をまわりながら次々と変化する景色を楽しむ、縮景として園内に名所の形式が採り入れられた。町家の庭は、生活する工夫として採光、通風とともに観賞の役割を持つ茶道や華道などの要素が採り入れられた。
 明治時代以降、近代の庭では、新しい政治、社会、経済システムの中、暮しの中にも欧米風のものが採り入れられ、それにあわせた明るい芝生や動きのある流れを楽しむようになった。政界や財閥の方も庭を造ることに熱心で大型の作庭も多く、小川治兵衛氏をはじめ、それらが造られた庭で残っているものに近年は注目が集まっている。
 重森三玲氏は、庭園は絵画だとされ、永遠のモダンを標榜された。世界的なモダニズムの影響を受けたのではないだろうか。モダニズム技術に対する信仰が、近代の自然式な雑木の庭につながるのもおもしろい。
飯田十基氏は、樹木に対する気持ちを大切にされ、「雑木の庭」と呼ばれる庭園を造られた。その影響を小形研三氏や小島佐一氏らが受け継いでいる。小島佐一氏は伝統的な京都の庭に雑木の庭の要素を採り入れた。また、現在では、廣瀬慶寛氏や平井孝幸氏らがその雑木の庭の流れを受け継ぎ、活躍されている。
 今日、京都をはじめ業界全体として、技術を発揮する場が減る中でいかに技術を受け継いでいくのかが課題になっている。京都迎賓館の現場では、伝統的庭園技術を発揮する場として、若手が経験を積む研修の場としても作業が行われた。庭園を管理する頻度が減ったり、庭園外で建造物の出現など、取り巻く問題は多岐にわたる。また、歴史的な庭園の復元についても十分な調査や検討が行われることが多くなっている。


近年の日本での庭園事例
 日本庭園は自然素材を使用するため、風化、成長などにより、時間とともに変化する。時代毎の生活習慣や個人の好みなどにより意図的に変えられることも多い。周辺環境の変化も大きく作用する。特に樹木の維持管理は、日本庭園にとって重要な課題である。
 日本庭園は、作庭が四分、管理が六分、と京都の植木屋は先輩から教わる。特に樹木の管理は、常に新しく「かたち」をつくる作業と言える。庭園は永遠に未完の「人と自然の共同作品」といえるのではないだろうか。
 日本で庭を数年も放置すると、樹木は鬱蒼と生い茂り、雑草で足の踏み場もなくなる。特に樹木の管理は大きな意味を持っている。例えば桂離宮を取り囲む樹木にしても、現在ある樹木の多くが昭和9年の室戸台風後に植栽され、あるいは実生で育ったものであり、今、これらの大きくなりすぎた樹木を整理し、林床に光を当てるなどの整備が行われている。また、周囲にできた現代の建造物を樹林によって視覚的に隠さなければならない事情もある。現代はこのように、本来は開放的であった庭園が閉鎖的な空間へと変化を余儀なくされていることも多く、庭園内でもそれに対応するスケールの新たな景観の創出が必要となっているのではないだろうか。
 昭和9年の室戸台風被害は、京都の景観も一変させた。東山の自然景観を意識して造られた南禅寺周辺の庭園をはじめ京都の庭園全体に影響があった。優勢種であったアカマツがほとんど倒れ、代替として成長の早いシイ・カシ等の常緑広葉樹が植えられ、またスギやヒノキの人工林が広がった。結果、周辺の山との景観の連続性を意識して庭園内にアカマツを多く植えた作庭時の意図が、現在では見られなくなってしまっている問題がある。
 樹木の生長が活発な日本では、「透かし」、「散らし」という剪定技術が生み出された。単に樹木の生長をコントロールするためだけでなく、樹木の形を整えることで空間をデザインする意味がある。「刈り込み」剪定は、面的に仕上げることで樹全体の形を際立たせる。庭園の中で自然と人工とを対比するというデザイン手法の中で両者は使いわけられる。これらの庭園技術、考え方を駆使して今後の庭園管理を行わなければならない。
 日本庭園の美を維持することは、その時々の人々が「快適」と感じることだと思う。英語では“Amenity”だろうか。日本庭園の管理手法は、決して特殊なものではなく、極めて日常的な、現代的な意味を持って行われていると考える。


 では、変化してしまった庭園をもとの姿に近づけるにはどうしているか。例えば、平等院では、発掘調査により平安時代の洲浜遺構が見つかったため、それに基づいて復元を行った。発掘調査からその内容に基づいて保存整備方法を検討し、復元整備を行う流れになる。また将来に向けて詳細な記録を残すことも必要となる。多くの専門家の協議に基づいて作業は進められる。
 大切なことは、その庭園が造られ経てきた経緯を大切にすることである。年月がたち、造った人がいなくなると、忘れてしまうことも多く、文献写真や時には発掘調査を行い、構造や変化の状況について検討し、修理の方向、方法を決めていく。庭園の変化を見ることは、今後の維持管理方法の検討材料にもなる。決して独断で部分的に作業したりしない。修理復元は新たな作庭行為であることを忘れてはいけない。
 今後は、北米をはじめ日本国外の日本庭園でも復元作業が行われることも増えると考えられる。今回ご紹介した事例が、皆様のお役にたてば幸いである。

 

以上のようにアカデミックな内容ながら、プロジェクターで写真、図版を映し出し、具体的で、実践的な工夫がなされた講演であった。この地で、本格的な日本庭園の知識や実態に触れることの少ないガーデナーたちにとっては、多大な収穫を得た講演会だったのではないだろうか。

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