着物コレクション
海が見渡せる明るいリビングのテーブルで、見せてくれた1冊のノート。そこに収められた約30枚の着物と20種の帯の写真。その横には詳細や、それぞれの着物にまつわるコメントなどが几帳面に添えられていた。「ほとんどが30年間たんすの引き出しにしまってあったものです。時間ができた今、ようやく整理することができました」
今、夢中なのは着物。そして和の小物。ベージュに黒の大胆な模様がアクセントになったモダンな帯は、実は厚地のカーテン生地だったというから驚きだ。時間に余裕ができた今、母親から習った洋裁を活かして洋服やバッグのほか、和の小物を作成中。大学でドイツ語科に進んだものの、実は洋裁がしたくてたまらなかったのだという。
帰国子女のかっとう
英語のほかにドイツ語とスペイン語を話す。父親の仕事で9歳から14歳の多感な時期をドイツで過ごした。帰国して入った神戸の公立中学では周りのクラスメートが子供っぽく感じられ話が合わず、ドイツに戻りたいと願っていた。ところが大学3年で1カ月ドイツに行ってみると、白黒はっきりさせ討論好きなドイツ人に抵抗を感じ、自分は日本人だと認識した。
その後父親の赴任先の中米・エルサルバトル~コスタリカでの暮らしを経て、現地で出会った五明良明氏と結婚。「住むのは日本以外」と意見が一致し、1980年二人でカナダに移住した。
40代でMBA取得
良明氏はサウス・グランビルの魚屋での商売を皮切りに、1988年ダウンタウンのサーロー通りに『サーモン・ビレッジ』をオープン。バブル経済がはじける前、日本からたくさんの旅行者が訪れ、店舗を拡張した。旅行会社で働いていた明子さんは40代でUBC大学院に入りMBAを取得。同じころ、独自の手法でスモークサーモンの製造を始めた良明氏が工場に専念するため、店の運営は明子さんに任された。
ところが2001年の9.11、2003年にはSARSの影響でカナダを訪れる観光客が激減。さらに2003年、太平洋のロタ島で良明氏が海難事故死。失意の中、経営を受け継ぎ仕事中心の生活へ。その後日本人観光客が軒並み減少し増える見込みがない中、店舗の家賃は上がるばかり。将来の見通しについて悩んだ末の2010年、22年続いた店を閉じる決心をした。
一つのことの終わりは、別のことへの始まりでもある。1楽章を閉じた明子さんには、やりたいことがたくさんあった。
二人ですること
プライベートでは友人に紹介された海老澤彰氏と2006年に再婚。2年半前から二人で合気道を始めた。「空手をやっていた主人が、体に負担のかからない武道を始めたいということで付いて行ったのが始まりです。有酸素運動で汗をかきますし、投げられて床に転んで起き上がるというのは前後の大きい筋肉を使うので、これから年を取っていくのに必要な筋肉だと思うのでいいかな、と(笑)。主人と一緒にやっているから、たぶん続いているのだと思います」
デジカメ教室がきっかけで入ったフォトクラブでは、写真を撮ってグリーティングカードを作りファンドレージングに参加。これも海老澤氏と一緒にするアクティビティのひとつだ。
着物が着たくて始めた茶道では、おけいこに加え月に1回のお茶会も楽しみの一つ。
日系社会でボランティア
日系センターの理事になって今年で3年目。日系文化センター・博物館建設以前から、ゴードン門田氏らとのファンドレージングのミーティングにかかわっていた。「当初は7.5ミリオン(ドル)という途方もない計画でしたが、こうして建物が建ち12年目を迎えました。今はプログラムや運営を維持する大変さを感じています」
ファンドレージングのためのイベント企画では、趣味の着物を活かしてコスモス・セミナーと共催で秋祭り期間中、着物ショーを開催した。
「バンクーバーが住みやすいのは、日系の方が作ってくれた社会のお陰です。それを受け継いでいく責任がありますね。できれば日系人、新移住者、移住者予備軍をもっとつなげ、皆さんが来たくなるようなプログラムを提供していきたいと思っています」
アーリーリタイアメントで過ごす充実した毎日。でもそれだけではなさそうだ。グローバルな人生の中で経験したさまざまな出来事。明子さんの生き生きとした笑顔には、そんな強さと美しさが見え隠れしているのかもしれない。
(取材 ルイーズ阿久沢)
五明(ごみょう)明子さん
1976年上智大学外国語学部ドイツ語学科卒業、1980年カナダに移住。7年間バンクーバーのJTBに勤務後、UBC商学部で2年勉強しMBA取得。1993年よりサーモンビレッジ経営に加わり、スモークサーモンやカナダの食品のお土産物の販売に携わる。同時にスモークサーモン他サーモン製品を製造販売のため自社工場設立尽力。2011年にリタイアし、現在は趣味の旅行、合気道、着物、洋裁、ファッションなどを楽しんでいる。