■安武節全開。継続は力なりを地で行く説得力
午前の部は『同時通訳者への道』と題した安武優子さんの講演でスタート。2009年の天皇皇后両陛下のカナダご訪問の際の通訳をはじめ、通訳者、翻訳者として第一線で活躍すると共に、A&Eコミュニケーションズ代表として精力的な活動を行う安武さん。講演の前半は、自己紹介として過去の学習経験を披露した。目が悪く黒板が見えず、必死にメモを取っていた小学校時代、英語の教科書をすべて書き写し、訳や解説を書き込んだ高校時代、劣等感を跳ね返すべく人の2倍の量を読み書きした留学時代など、失敗談も交えて楽しく紹介。後半は 「日本語から英語にするときは足し算、英語から日本語にするときは引き算が大切」、「語学力よりも背景知識。政治経済から目を離すな」と通訳者が押さえるべき点を現場の本音を盛り込みつつ伝授。またスキルアップに有効な「ウィスパリング」など5つの練習方法を参加者に実践させた。短い時間内に詰め込まれた圧倒的な情報量、場を和ませる気さくな人柄とサービス精神―ノウハウや知恵と共に安武さんの人間的魅力があふれ出た講演だった。
過去にも何度か安武さんの講演を聞く機会を得たという参加者の東やよいさんは「安武さんのお話は、その都度、学ぶことが多く、とても刺激されます。今回もご自身の経験をもとにした通訳、翻訳の話、英語の勉強の話は説得力もあり、話に引き込まれました」と感想を語り、他の参加者も「刺激になった」「やる気が出た」と目を輝かせた。
■英知を集めて日英翻訳実習
次の翻訳実習は題材別に2つのグループで実施した。ハーディン久美さん、李アグネスさん、共に日英翻訳の公認資格を持つ二人がファシリテーターを務めたのは映画紹介記事が題材のグループ。こちらはポップな言葉の英訳の検討を中心に展開された。「かっこいい」をsickで表すといったスラング表現から話が発展し、今どきの日本語の「何気に」の使い方をはじめ、知らないと誤訳につながる言葉を紹介しあうなど参加者が和気あいあいと話し合う場になった。
もう一つのグループは、ロイター通信ロンドン本社勤務をはじめとする数々の経歴を持つ翻訳家の渡邊正樹さんが進行。題材は東北地震の被災地を取り上げた新聞記事。最初に震災のビデオ上映により、文章の背景状況に思いを馳せる環境作り。その後の翻訳の実践で渡邊さんは、言葉から言葉の翻訳ではなく、言葉で描写された事実を、翻訳者が直接見たように目標言語で表現するようにと強調した。
昼食はハイゲンキ提供のバイキング形式の日本食。ネットワーキングを目的とする参加者も多いとあって、初対面同士ながらどのテーブルも打ち解けた雰囲気で話に花を咲かせていた。
■ジョイ・コガワさんのメッセージと朗読が参加者を魅了
午後はオーダー・オブ・カナダ受章の作家ジョイ・コガワさんを迎えて開幕した。セッション冒頭に、翻訳も人生も小さな一つ一つが大切であると示唆するメッセージを語ったコガワさん。穏やかだが情熱にあふれ、心の奥深くにある強い信念を感じさせる語りだった。その後、コガワさん自身による未発表作品から抽出した課題文の朗読を各所に挟みながら、公認英日翻訳者のシャープ雅子さんの進行でキーワードの訳出を会場全体で検討した。また、シャープさんは「原文が見えない訳文を」と伝え、翻訳時に考慮すべき5つのポイントを紹介。個々の訳出表現のアイディアを参加者から募り、その時々にコガワさんに該当箇所の状況や思いの解説を求めた。時折出てくるキーワードについては本会の運営リーダーである鹿毛達雄さんが背景知識を詳細に解説した。コガワさんは耳元で通訳を行う池上由布子さんの助けを借りながら、大半が日本語で行われた翻訳の部にも積極的に参加。自分の作品が日本語に翻訳されていく様子を目の当たりにしてコガワさんは興奮気味に“This is fun!”を何度も繰り返していた。
途中、館内全体が停電になるアクシデントに見舞われながらも、会は落ち着いて進行され、コガワさんの挨拶にあった「すべてのことに存在する愛へ信頼を持っている」という大らかな思いが会場を包んでいる感があった。
コガワさんのセッション後は、会主催者から参加者へサプライズの授賞式。過去5回の参加者に贈る皆勤賞を含む、合計3つの賞を用意した。贈呈されたのは、受賞者の宛名とコガワさんのサインが入った彼女の著書『Obasan』。しかもコガワさんからの直接の贈呈とあって受賞者の中には目をうるませる人もあった。その後、マフィンなどをつまみながらの休憩をはさんで、本日の基調講演へ。
■鋭く興味深い洞察、ソフトな語り口
―野田医師の基調講演『精神科診療・ことば・文化』
野田文隆さんは、精神科医師として大正大学人間学部教授とUBC精神科Adjunct Professorの職務に当たる傍ら、東日本大震災以来、多文化災害支援委員会を設立して、在日外国人の心のケアに取り組んでいる。自らの研究分野で本ワークショップの参加者のニーズとの接点を探り、『精神科診療・ことば・文化』と題し、講演を開始。冒頭では日本語話者の英語圏でのコミュニケーションが容易でないのは「言葉の構造よりも考える構造の違いが大きい」と捉え、その現れとして、診療時に見られる北米と日本の患者の姿勢の違いを端的に指摘した。たとえば“How can I help you?”と医師が尋ねれば、自分の状態や要求をダイレクトに伝えてくる北米の患者に対して、日本人は、要求は告げずにひとしきり自分の状況を聞いてもらい、医師にどうしたらよいかの判断を委ねる。また日本人は、さほど患者が語らずとも医師に察してもらってピタリと診断を言い当ててもらいたい傾向にあると紹介。こうした日頃の心理傾向は昨年以来の東北の被災地の人々にも同様に現れている。すなわち日本人は「ダイレクトなニーズを言語化するのに慣れていない」ため、被災者に直接尋ねてみても、どのような心のケアを必要としているのかわからない。そこで、野田医師率いるグループでは彼らの隠れたニーズを拾う目的で、盆踊りや芋煮会など楽しい時間を提供して心のありように迫っているという。長年の医師としての仕事、地道なNPOの活動から見出したエッセンスを語る野田医師からは、かかわる人々に向ける温かい思いやりの気持ちが伝わってきた。講演の感想を尋ねると、精神科のクリニックで勤務経験があるというマーシャン真理さんは「野田先生のお話はとても自分の関心にぴったりで、貴重で実りあるものでした」と喜びに声を弾ませた。
会の最後には、手弁当で会を準備・運営してきたJLIGのメンバーたちへの謝辞が参加者から贈られ、参加者、主催者は、ともに実り多き時間を過ごした満足感にひたりながら、閉会後もしばらく互いの交流を楽しんだ。
(取材 平野香利)(写真 小島充代)