2017年9月28日 第39号

今では伝説となっている戦前バンクーバーで活躍した日系野球チーム「バンクーバー朝日」。その初代チームで捕手として活躍した北川(堀居)由太郎選手を曽祖父に持つ中島あゆ美さんが8月12日からバンクーバーを訪問した。

曽祖父が朝日でプレーしていたことも、朝日チームのことも、それほど気にしたことがなかったという。しかし今春、ふとしたきっかけで気になり始めた。

そうなると居ても立っても居られない。この夏、曽祖父の軌跡を求めてバンクーバー、そしてトロントを巡った。

 

中島さんもお揃いの朝日のTシャツを着て、上西さんとツーショット。2017年8月13日

 

バンクーバー訪問のきっかけは「上西さんに会いたい」

 学生時代ブリティッシュ・コロンビア州内陸部カムループスに短期留学した経験がある中島さんは、今年2月頃「またカナダを訪れたい」と思っていたという。

 その頃、日本のテレビ番組でカムループスが放送されているのをたまたま見た。その番組の主人公は「上西ケイ(功一)さん」。バンクーバー朝日の選手だったと紹介された。バンクーバー朝日といえば…。気になって母親にたずねてみると「おじいちゃんがいた朝日軍の方よ」との回答。「それですごく興味が沸いて。上西さんが95歳ということでしたし、早く会いたい!って思いました」。

 それから曽祖父・北川由太郎のことを調べ始めた。必然的に朝日のことを知ることになる。北川由太郎捕手は北川三兄弟の二男。長男・初次郎(ミッキー・キタガワ)は投手として、三男・英三郎(エディ・キタガワ)は中堅手として、ともにプレーした。

 日本で朝日を知るに当たっては、滋賀県彦根市の松宮哲さん(ブリティッシュ・コロンビア(BC)スポーツ殿堂入りのメダルを日本にいる朝日の家族に渡す活動をしていた)に会った。曽祖父家族は彦根市出身。曽祖父について、北川三兄弟について、朝日について、詳しい資料も提供してもらった。横浜に住むテッド・フルモトさん(『バンクーバーの朝日』著者)にも会った。

 資料を見るたび、話を聞くたび、バンクーバーに行きたい、朝日のことを知る現在唯一のメンバー上西さんに会いたい。その思いは強くなった。

 

上西さんとの出会い

 「ようこそ」。そう言って上西さんは中島さんを迎え入れた。8月13日、バンクーバーの家族宅に滞在中だった上西さんを訪ね、そう言われると一気に緊張が解けた。「すごく気さくで話しやすい方でした。朝日の話になると止まらないんですね」。そうあとで振り返った。

 しばらくは当時の朝日の話に花が咲いた。パウエル球場の隣に住んでいた上西さんは、試合が始まると飛んで行ったと笑った。野球が大好き。一時広島に帰郷していた時も、1933年バンクーバーに帰ってからも野球をした。そして1939年念願の朝日入り。「17歳 の 時 に 朝 日 に 入 れ て もらって。うれしくて、うれしくて。ユニフォームを抱きしめて、一晩中眠れなかったですよ」とうれしそうに笑う。95歳になった今でも一生忘れられない思い出だ。朝日入りは最高の栄誉だと思っていた。「ベンチに座ってるだけでもいいから朝日に入りたかった」。78年前を思い出して語る。

 しかし1941年12月、日本軍の真珠湾攻撃を機にカナダ政府の日系人強制収容政策が始まると朝日は解散した。「ほんま情けなかったですよ」。朝日選手として野球がしたかったという思いが言葉ににじむ。「まだルーキーですよ」。そう笑った。

 当時の話に中島さんはずっと耳を傾けていた。「私はまだ朝日のことを知り始めて半年くらいしか経っていないので」。いろいろなことを吸収したい。上西さんの話は新鮮だった。曽祖父の存在は歴史の中だ。しかしこうして実際に朝日メンバーの上西さんの話を聞いて「ここで本当にプレーしていたんだなと実感しました」。

 中島さんが曽祖父について写真を見せながら説明すると、上西さんは興味津々に話に聞き入った。北川選手は1914年から捕手として活躍していたと話すと「僕はまだ生まれてないなぁ」と笑った。当時のパウエル球場の写真を見ながら、「この木を越えたらホームラン、木に当たったら2ベースヒット」と説明する上西さんの話を熱心に聞き入る中島さん。上西さんとの楽しい時間はあっという間に過ぎていった。

 

パウエルストリートを歩いて

 上西さんを訪ねる前にパウエルストリートを歩いた。パウエル球場、現オッペンハイマーパークのホームベースがあるネット裏から球場を眺めたり、当時の面影をまだ少し残すパウエルストリートを当時の地図を見ながら歩いたり。ここで確かに曽祖父が活躍していたという面影を確かめていた。

 そしてオッペンハイマーパークの東隣にあるバンクーバー仏教会を訪れた。北川選手は実は早くに亡くなっている。「どうやらお酒が大好きだったみたいで、肝硬変のうえインフルエンザにかかり急性腹膜炎で40歳の若さで亡くなっているんです」。1936年にセントポール病院で息を引き取ったことが分かっている。仏教会で葬儀が行われ、その記録が残っていた。

 仏教会青木龍也開教使の厚意でその当時の記録を見せてもらった。しげしげと見つめる中島さん。ひとつひとつ明らかになる曽祖父の存在の証に、一歩ずつ曽祖父へと近づいていくそんな感覚を覚えていた。

 

新朝日チームに曽祖父を見る

 上西さんを訪ねた日は、偶然にも新朝日チームの初練習の日だった。新朝日チームとは、「バンクーバー朝日」のレガシーと野球観を引き継ぐ野球チーム。中島さんは、上西さんとともに初練習の見学と子供たちへの激励に向かった。

 「新朝日を見た時、鳥肌がブワァッとたちました」。もちろん曽祖父に会ったことはない。しかし、「確かにこの町にいたんだなぁっていうのが重なったというか、ひいおじいちゃんが今このグランドにいるんだなと」そう感じた。 そんなことを知ってか知らずか、子供たちは朝日のユニフォームを着て楽しそうに野球をやっている。

 上西さんは、新朝日の子供たちを目を細めて見つめていた。「(新朝日として子供たちが野球をするのは)うれしいですよ。しかも日系だけではなしに、いろいろな人種が集まってね。とっても喜んでるんですよ」とうれしそうだ。人種差別で苦しんだだけにその言葉には実感がこもる。「親善にいいですね。2年に一度ジャパンに行って。いろんな人種の子どもたちが日本を見て。とてもいいことだと思うよね」と語り、「僕ももう少し若かったら一緒に行くんだけど」と笑った。

 新朝日の猪亦功憲監督は中島さんの存在を聞いた時「正直驚きました」と語った。朝日メンバーの関係者が見に来てくれたのは、とても光栄と喜んだ。

 そして上西さんと中島さんと新朝日の子供たちと、シーズン初めの記念撮影。朝日の若い力が、バンクーバーで唯一のオリジナルメンバーと、初代の子孫と、一つになった。

 

朝日を通じた日加の架け橋になれれば

 バンクーバーで上西さんと出会い、日系博物館やBCスポーツ殿堂で朝日を確かめ、パウエル街を歩き、「日本でいろいろ調べたよりも、ひいおじいちゃんをより身近に感じました」。

 中島さんの訪問に上西さんは「朝日のことを話してもらうとうれしい」と笑っていた。だからこそ、自身でさえ出会ったことのない朝日草創期の選手の若い子孫との出会いも、うれしかったに違いない。朝日がもたらす縁だ。

 トロントでは曽祖父の姪にあたる三男・栄三郎選手の娘キャロリン(Carolyn)さんとも初対面した。中島さんは「北川三兄弟の子孫同士が出会える歴史的な一歩となりました」と喜んだ。涙の別れに再会を胸に秘めた。「不安と緊張、そして多大なプレッシャーを背負っての訪問でしたが」と本音も覗かせたが、「収穫の多いものとなりました」と充実した旅を振り返った。

 日本で、カナダで、協力を得た人々の朝日の縁が今回の旅を可能にした。「ほんとに感謝です」。

 そして「皆さんの朝日を後世に伝えていきたい」、そう思った。今回の旅を通じて、朝日の選手を曽祖父に持つ者として、「バンクーバー朝日の活躍を、大事にしていたフェアプレーとスポーツマンシップの精神を伝えていく日加の架け橋になれればうれしい」。そう思い、活動を続けていきたいと語った。

(取材 三島直美)

 

プレーをしている北川由太郎選手(写真:Nikkei National Museum. 2010.30.1.2.62)

 

北川(堀居)由太郎選手。Yo Horiiとして知られていた(写真:上下ともwww.virtualmuseum.ca/sgc-cms/expositions-exhibitions/asahi/)

 

旧パウエル球場、オッペンハイマーパークの朝日の記念碑の横で。2017年8月13日。バンクーバー市(写真提供:中島あゆ美さん)

 

新朝日チームと一緒に。後列左に中島さん、前列中央に上西さん。2017年8月13日。ブリティッシュ・コロンビア州バーナビー市

 

上西さん(中央)、新朝日チーム猪亦監督(左)と一緒に。BC州バーナビー市

 

 

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