金城ジョリーはカルガリー出身の日系二世。ソウル、スカ、レゲエ 、ファンク、リズム&ブルース(以下R&B)のミュージシャン。学生時代からの音楽活動に引き続きカルガリー大学のジャズ学科に入学。1999年にソウル・ミュージックのバンド『モッキング・シャドウズ』に加わり音楽活動を始める。ソングライター、そして、ベーシストとして他の音楽家とのコラボの音楽活動も続けている。
金城ジョリーさん近影(写真©Jessica Michael)
カナダのブラック・ミュージック界ではそう多くないアジア人の血をひくミュージシャンのジョリーさん。R&Bの『モッキング・シャドウズ』、スカ/レゲエ・バンドの『ジョリー・キンジョウ&リレー』、ファンクの『グッドフット』、そして、『キンジョウ・ブラザーズ』の4つのバンドに所属して音楽活動を続けている。
マニトバ出身のアイスランドとアイルランドの末裔の母、そして、沖縄県首里出身で20代でカナダに移住した父の血を引くジョリーさん。同じくミュージシャンである弟のキリーさんと、2012年に日本での3度目のツアーで父の故郷の沖縄を訪れて那覇祭で演奏し、琉球テレビ&ラジオに出演した。カナダで、そして、日本やヨーロッパでもミュージシャンとして活躍している。
9月23日、『ジョリー・キンジョウ&アン・バリード』の演奏ツアーでBC州内陸部のアシュトンクリークを訪れていたジョリーさん。アコースティックギターで自作の曲やR&B、マイケル・ジャクソンを、そして、専門のベースに持ち替えてヒットメドレーなどを含む数曲を弾き語り演奏。その後、ピアノ&ボーカルのアン・ブライエンドとピアノとベースで共演しながら歌声も披露した。パフォーマンスをしながら会場の聴衆と親しげにやりとりを交わすジョリーさんからは、気さくで温かい人柄が感じられた。
音楽活動を始めたきっかけは?
私は、5人兄弟の2番目としてカナダで生まれました。沖縄の父方の祖父は厳格で父にギターを弾くことさえ許しませんでした。音楽好きだった父は、カナダで生まれた私たち兄弟にギターの弾き方を教え、ファミリーバンドを編成して聴衆の前で演奏する機会も作りました。私は学校のスクールバンドでギターを演奏し、ジャズを学ぶためにカルガリー大学に入学しました。そして、オーディションに受かって私が最初に加わった音楽バンドのベースプレーヤーとして『モッキング・シャドウズ』メンバーになったのは19歳の時でした。
その後、どのように活動してきましたか?
『モッキング・シャドウズ』は、BBキング、バディー・ガイ、ZZトップなどの有名なバンドと共にツアーをした経歴があります。5枚アルバムをリリースし、その後も活動を続けています。2007年に『ジョリー・キンジョウ&リレー』と呼ばれているスカ・バンドでベースを演奏するようになり、ヨーロッパツアーに参加。このバンドは2012年のモントリオール・スカ・フェスティバル、カルガリー・レゲエ・フェスティバル、2013年のビクトリア・スカ・フェスティバルに参加して好評を博しました。スラッカーズ、アグロライト、フィッシュボーン、イングリッシュ・ビートなど、このジャンルを率いているグループとも演奏しました。そして、私の近年の音楽経歴のハイライトとして、南アフリカの伝説的なジャズアーティストとの共演もかないました。
日系カナダ人としてどのように育ちましたか?
私たち兄弟はカルガリーで生まれ育っています。自分たちの世代はカナダでミクスド・レース(異文化の歴史を持つカナダに住む人たち)の代表として活動することはとても大事であると感じています。そうはいっても、私たち兄弟は、自分たちのカナダ人の友人たちと同じ体験をしてきたわけではありません。他国からの移民として限界があったり、彼らと同じような機会が与えられないこともありました。
プラスの面もありました。大叔父であるヒロ・カネシロは、カルガリーで1957年にヒロズ・ジュウドウ・クラブを創立していました。幼い頃より彼から柔道を習い、父からは沖縄の空手の手ほどきを受けました。沖縄の血を引く移民である私たち兄弟は、成長過程で何度か沖縄を訪ねています。そして、高校時代の夏休みには兄弟で沖縄滞在して柔道や空手の特訓を受け、カルガリーに戻ってからアルバータ州の州代表チームとして国際大会に出場しました。
日系人としてのアイデンティティーは?
私は、カナダに住んでいるさまざまな混血の人々、そして自分と同じく日系二世は、アイデンティティーの危機を体験してきていると感じています。カナダという文化圏で、両親の持ち寄ったカナダとは違う文化の影響を受けて育っているのですから。同時に、カナダで日系人であるということは、母のカナダで育ってきた価値観と、父の沖縄で培ってきた価値観の両方を得ることができる文化的に豊かで素晴らしい面があります。
父は、学校で好成績を保っていたら課外活動をしても良いと教育しました。私たち兄弟は日本の武道を極めていると共に、カナダの国技であるアイスホッケーもずっと続けていました。私の兄はホッケーの奨学金で米国のエール大学に留学、そして、カルガリーの医科大学への奨学金を授与されました。このような機会を与えてくれた、国際結婚をした両親に感謝しています。
人種的差別を体験したことは?
私たち兄弟は、他の混血の人々が受けたであろうと同じくらいの差別をカナダで体験してきています。でも、私たち兄弟がより人種的差別を感じたのは、カナダではなく沖縄でした。幼い頃に国際結婚や混血に慣れていなかった当時の沖縄を訪ねた時、問題視されたことがありました。でも沖縄に行く前に、沖縄で受けるであろう人種的差別に対して熟考し、理解を深めて受け入れられるように、両親が私達の心の準備をしてくれました。そのおかげで、沖縄地元民からの差別的な対応を個人的には受け取らず、そんなこともあると受け流すことができました。
日系二世としてブラック・ミュージックを演奏していることは?
確かにカナダの音楽界で自分のようにアジア系の血を引いているミュージシャンを見かけることは少ないです。でも今の私たちは、人種によってどんなジャンルの音楽を演奏するのか、を決められるような時代に生きているわけでもない。すべての人種のミュージシャンに、全ての音楽分野の門が開いていると感じています。そして、誰でも好きな音楽を自由に表現してもいいのです。私は人々がブラック・ミュージックと定義している音楽に携わることを誇りとしています。
ときどき私の演奏を聴いたことがない人が、日系の私がブラック・ミュージックをしていることを批判することがありますが、それはステレオ・タイプな反応で偏見であると感じます。たまに私の音楽を先に耳にして私を黒人だと思い込んでいる人がいます。そして、私が黒人でないことを知って愕然とします。そして、彼らは私は正当なブラックミュージックのミュージシャンでないと反応するのですが、私はこのように人々の心の中のバリアを壊し続けていきたいです。共演したことのあるBBキングは、私に人種に関する比喩をこのように言いました。「黒いチョコレートがあり、そして、ホワイトチョコレートがある。しかし、それもすべてチョコレート」
ルーツのある沖縄での演奏活動はいかがですか?
プロのミュージシャンとして活動するようになってから2007年に弟のキリー(現在は沖縄在住でディアマンテスというラテン音楽バンドで活動中)と沖縄を訪れました。友人でもある琉球放送のアナウンサーの狩俣倫太郎さんは、私たちを何度もラジオ番組のゲストに招いてくれています。私たちが前回沖縄で演奏した時、ディアマンテスの日系ペルー三世のアルベルト城間さんや、The Boomの宮沢和史さんと次回の演奏ツアーや新しいプロジェクトの話をしました。来春あたり実現できそうです。私たちが国際的に音楽の演奏をする時、音楽家同士は他言語でお互いに話すことができませんが、音楽を通して他のミュージシャンと触れ合うことができるのです。音楽がコミュニケーションの方法として素晴らしいものであると再認させられます。
これからの抱負は?
何枚かのアルバムをリリースすること。いくつかの演奏ツアーも予定しています。来年の1月にはヨーロッパ、そして、春には沖縄に行く予定です。沖縄でラテン音楽の音楽バンド活動をしている弟のキリーともっとコラボしていきたいです。私はニューヨーク、カルガリー、エドモントンの3カ所を転々としながら暮らしていて、各地で音楽活動を展開しています。そんなライフスタイルを続けていきたいです。
ライブ会場でお会いしたジョリーさんは、気さくに日系二世の自分の生きた歴史を語ってくれた。父方のルーツのある沖縄でのさらなる音楽活動を念頭にしているジョリーさんのこれからが楽しみである。
(取材 北風 かんな)
BC州アシュトンクリークで開催された『ジョリー・キンジョウ&アン・バリード』のライブ風景
ベースの弾き語りをしているジョリーさん
使い込んだ5本弦のベースギターには柔道クラブのステッカーも貼ってある