どのようにジュエリー・メーカー/彫刻家になったのですか?
大学卒業後、1978年から7〜8年間フリーランスでステンドグラス制作をしていましたが、1986年に父の仕事を手伝うためにBC州のブラントンに移りました。その時、妻の従兄弟が私をジュエリー作りに誘ってくれ、週に一度通ってジュエリー作りの基礎を学びました。それから25年経ちましたが、さまざまな失敗を積み重ねて作品作りを続けてきています。自分はずっと学びの徒であると感じています。
日本に行ったことがありますか?
まだ日本には行ったことがありません。妻と一緒に一度は日本に行こうと話してはいますが、未だ実現していません。カナダという白人社会において、私の作品はアジアの独特さが感じられると評されています。なので、自分が日本を訪ねて美術工芸品を鑑賞したときに、私の作品がいかに西洋的に見えるかに興味を持っています。
日系人としてカナダに住んでいることをどうお感じになりますか?
一時期は日本人が敵であったカナダという国で戦後育ったのは、あまりない体験だったと思います。私の両親は当時のカナダ政府の隔離政策の対象となり、第二次世界大戦の収容キャンプ時代後にカナダ東部に移り住むことになりました。このような不当な扱いを受けても両親はカナダ政府に対して恨みを持つこともなく、私をできるだけカナダ人として育ててくれました。でも、等質的に白人社会であるカナダでは私たち日系人は目に付く存在ではありましたが。
今まで体験してきたことが今のブライアンさんのしていることにどのように反映されていますか?
今の私は今までの体験すべてが統合されたものであると感じています。ジュエリーの世界では初めの頃、自分は門外漢であると感じていましたが、自分のステンドグラスでの造形的な体験がこの世界で独立独歩にやっていく礎となりました。後から気付いたのですが、私はどこの世界で仕事をしていても、部外者であると感じていました。それは私の人生早期に起こったできごとが自分の性格形成を強化したからだと理解しています。34年連れ添っている妻が私の内向的でコミュニケーションを取り難い性質を証言しています。このことを別の角度から見てみると、私は観察者であり、私の感情を超越している部分が観察力を養う元になっているといえるでしょう。私は静かな人間であり、そんなあり方が自分の作品によく表れています。
これからの抱負をお聞かせ下さい
ジュエリーを少なくし、もっと彫刻を創っていきたいです。自分の創造的に肝要な部分を果たすためにずっとジュエリーを作ってきましたが、ジュエリーをデザインするという枠の中では表現し切れていないと感じているからです。私が自己探索し、表現していけることは、より豊かであり、それらの制作はより複雑なものなのです。その結果は、いつも小さなスケールのもので、『ジュエリーのようなもの』になるのですけれどね。
グランビル・アイランドのパブリックマーケットでクラフトショーをしているブライアンさんに会いに行くと、眼鏡の奥の瞳を輝かせながら、作品への思いを淡々と、そして、的確な言葉で語ってくれた。ブライアンさんの作品からは、私たち日本人が懐かしいと感じるような繊細さや、風流さ、情緒が感じられる。
ブライアンさんは定期的にグランビル・アイランドのパブリックマーケットや、ラドナーのビレッジマーケットでクラフトショーに出展している。スケジュールはwebsiteを参照のこと。
(取材 北風かんな)
ブライアン・ホヤノ
プロフィール:日系三世。日系二世の両親の間にモントリオールで生まれる。同市で育ち、McGill大学卒業後はフリーランスでステンドグラス制作に従事する。BC州に移住後、1987年よりジュエリー・メーカー/彫刻家として北米で活躍中。現在はBC州サーレー在住。
2011年9月15日 第38号 掲載