2019年1月1日 新年号
日系人医師として活躍したDr.アーニー・ムラカミ。子供時代には収容生活を経験、一度は諦めた医師への道を、その情熱と恵まれた出会いにより成就し、医師としてブリティッシュ・コロンビア州で貢献してきた。
現在はその知識と経験を生かしてライム病患者の救済に尽力。世界中からDr.ムラカミの助言を求めてくるという。バンクーバーに来る人もいればオンラインで助言することもある忙しい毎日を過ごす。
多忙な中、強制収容生活や医師としてライム病への挑戦などの話を聞いた。
講演会でのDr.ムラカミ。ニューウエストミンスター市、2018年9月
突然やってきた強制収容
父ムラカミシンゴさん、母セツコさんと姉、弟、妹の6人家族で、戦前はバンクーバーに生活していた。普段はバンクーバーの学校に通い、放課後は姉とアレキサンダー日本語学校に通う日々。学校の近くにあるパウエル球場(オッペンハイマーパーク)で日系人野球チーム「朝日」の試合があったことも覚えているという。
バンクーバーの自宅にはピアノがあり、日曜日の夜になると母がピアノ、父はバイオリンを弾いて家族で歌を歌っていたと懐かしそうに話した。
そうした生活も、日本軍の真珠湾攻撃を機に日本が第2次世界大戦に参戦したことを理由にしてカナダ政府がとった日系人強制移動政策によって一変した。
「毎日仕事に行っていた父がある日家に帰って来なかった」と振り返る。RCMP(連邦警察)に連れて行かれたと聞かされた。あとでバンクーバーのある建物にいることが分かり家族みんなで会いに行った。しかし面会することはできず「お互いにただ手を振ることしかできなかった。手紙を渡すことも、話をすることも許されなかったのです」。
家族は移動させられるまで自宅で待機させられたという。多くの日系人はPNEに集められた。「今でもPNEに行くたびに、ここに収容されていた友人や親戚を訪ねた時のことを思い出して感情的になりますね」。自分たちにはバンクーバーを出るまで14日間が与えられたという。父親がいないため、母親と姉が支度をしたことを覚えている。許されたのは一人につきスーツケース1つ分の荷物のみ。「家族は全てを売らなければならなかったし、処分しなければならなかった。ピアノを置いていくのも父のバイオリンを持っていけないこともすごく残念でした」。この時点で父親の行方は依然としてわからなかった。
家族は父親不在のまま東リルエットへの移動を決意。東リルエットでの生活は厳しいものだった。
極寒の地はマイナス50度まで下がる日も少なくなかったと振り返る。「今でも覚えているけど子供の頃はストーブで温めた石を毎日持って暖房として使っていましたね。すごくストレスの多い状況でした」。
父親については、アルバータ州で道路建設に駆り出されていることが分かった。最終的には許可が下り東リルエットの家族に合流することができた。東リルエットでは、母親は農場で働き、父親はトマト栽培農場で働いた。自分たちはリルエットの学校に通っていた。
学校に通っていた時に起きたことが人生に大きな意味を持つようになる。「クラスメートが自転車から落ちるという事故が起きたんです。その時は医師もいなくて、病院もなくて、ファーストエイドステーションもなくて。その状況がすごくトラウマになっていて。その時、私は両親に『医者になりたい』と言いました」。
しかし医学部に行かせる余裕はないと言われたという。バンクーバーでのビジネスも失ったし、全て失ってしまった。医学部以外の道を目指しなさいと言われた。医師への道はしばらく自分の中に秘めておくことになる。
家族はその後BC州バーノンに移動。農場で働いた。住み込み先のカナダ人農家はいい家族で、その家族とは今も交流があるという。当時自分たちで建てた家もまだある。強制移動は意外な形で、その姿を残している。
医師への道を目指す
バーノンで高校を卒業後、強制移動政策が1949年に終了し、BC州バンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)に入学した。医学部へ進む余裕がないため、細菌学と免疫学を専攻。医学に近いからだった。「これが、のちにライム病を理解するのに非常に役に立ちましたね」と振り返る。医療への道を諦めた訳ではなかったが、その時やれることにベストを尽くした。そんな時カート博士と出会う。会話の中で医療への情熱を語ると金銭的な支援を申し出てくれた。自分を信頼してくれるカート博士の言葉に後押しされ医学部へ進んだ。
1958年に医学部を卒業後、BC州ブラローンで医師として勤めた。バンクーバーと違い、小さな町で医師は少ない。一人で全てをこなさなくてはならない。いきなりいろいろな患者の対応を迫られた。取り上げた赤ちゃんは700人以上。双子の取り上げに苦労したことも懐かしそうに話した。
それから1991年にBC州ホープに移る。医師としてコミュニティに貢献。この時に出合ったのがライム病。自身最初のライム病患者を診察する。
ライム病への挑戦
最初にライム病患者と診断したのは1994年。BC州アガシーズだった。続いてホープでも診断した。それでライム病がBC州で広がりつつあることを感じたという。それでもカナダの医学界はライム病に対して閉鎖的だったと振り返る。
しかし「自分は、細菌学や免疫学を専攻していたのでライム病を理解するのに非常に役に立った」と、現在はライム病への対応を「ライフワーク」にしている。
ライム病とは主にマダニを介して動物から人に感染する細菌による感染症。症状は一般的にマダニに噛まれた跡の周りが赤く腫れるほか、初期には、筋肉痛、関節痛、頭痛、発熱、悪寒などインフルエンザに似た症状が現れるという。適切な処置が行われなければ症状は悪化し、何年も苦しむことになるとDr.ムラカミは強調する。カナダではライム病と診断されずに苦しむ患者が多いという。
「悲しいことにライム病の最大の死亡原因は自殺なんです」。何年もの治療の末に耐えられずに自ら命を断つ人が少なくないと語る。そういうライム病で苦しむ人々を助けたいというのが動機だ。自身の知識も経験も最大限に生かせる。
現在は講演や教壇でライム病に関する研究結果や対処法などを教えるほか、ライム病で苦しむ人々にはメールや電話、オンラインで直接アドバイスを惜しまない。
最近ではヘンプ(麻)を原料とするカンナビジオール(CBD)を使用した治療法の研究と臨床に力を入れている。2018年10月17日から嗜好用マリファナ(大麻)の使用が合法化されたカナダだが、CBDはそれ以前から合法だった医療用。ライム病治療に大きな効果がある研究結果を得ているという。
CBDに注目し始めたのは6年ほど前から。最初は吐き気やめまいなどの症状抑制のために使用していた。しかしライム病自体の治療にも効果がある症例があったことから2014年から本格的に治療のための研究を他の医師と協力して始めたという。
CBDに注目するきっかけは自身の体験からもきている。「ある時、孫とホッケーをしている時に頭を強く打ってしまって。それで病院で検査を受けると脳に腫瘍があることが分かったんです」。一度は手術をしたが取り除くことができなかった。そこで吐き気などの症状緩和にすでに合法だったCBDを試してみた。医師には1年で1インチは大きくなると言われていた腫瘍は18カ月でわずか4ミリしか大きくなっていないことがMRI検査で分かった。その間にCBDを使い続けていた。担当医師にも驚かれたと笑う。今でも腫瘍を抱えたままだが、生活に支障はないという。
ライム病への治療でも自身がかかった時にすでに試している。研究結果でも、これまで抗生物質だけでは完治しなかったライム病患者にも有効であることが分かっている。
現在では世界中からアドバイスを求めて問い合わせがある。Dr.ムラカミによれば、カナダでは依然としてライム病と診断されるケースは少ないという。しかし最近の地球温暖化によるカナダでの健康への影響としてライム病の増加が含まれた報告書が発表された。理由は温暖化でマダニが越冬する確率が高くなったためだ。
これは以前からDr.ムラカミが警鐘を鳴らしていた事態と一致する。1匹のメスのマダニが生む卵の数は約3千個という。1994年にはBC州で初めて自身が診断した。それからすでに20年以上が経つ。在カナダ日本大使館でもカナダで注意する病気の一つとしてライム病をあげている。適切な対処法が必要なことは明白だ。
Dr.ムラカミは少しでも多くのライム病患者を救済するため、これからも研究やアドバイスなど「できる限りのことをやっていきたい」と語った。
Dr. Ernie Murakami
M.D. Clinical Associate Professor Emeritus, UBC
B.A. Bacteriology and Immunology, UBC
ホープ在住。Dr.ムラカミのライム病研究はYouTubeに多く掲載されている。Dr. Ernie Murakamiで検索。
(取材 三島直美)
Dr.ムラカミ(前列左端)が子供の頃の家族写真。父シンゴさん(後列左端)は当時バンクーバーで写真店を営んでいたフォトグラファーだった。(写真提供:Dr.ムラカミ)
ホープで家族、友人と。Dr.ムラカミは中央、メダルを胸に(写真提供:Dr.ムラカミ)
マダニに噛まれたあとのライム病の症状。これはDr.ムラカミ自身が噛まれた時に撮影した自身の腕(写真提供:Dr.ムラカミ)