2017年1月19日 第3号
1月15日午後、バンクーバー市のH.R.マクミラン・スペース・センターで、毎年恒例「ラウル・ワレンバーグ・デー」が催された。今年は、戦地の人々への医療・人道援助に取り組む「国境なき医師団」をたたえた。
バンクーバー市、クイーン・エリザベス公園内にあるラウル・ワレンバーグの功績をたたえるプレート。消息を絶ち亡くなった年月日が不明のため、その部分は記されていない
■ ユダヤ人を助けた外交官たち
第二次世界大戦中、スウェーデンの外交官ラウル・ワレンバーグは、ナチス・ドイツ占領下のハンガリーで、身の危険にあったユダヤ人たちに中立国スウェーデンの「保護証書」を発行。外交特権を生かし、彼らを安全な場所にかくまった。これにより、10万人にのぼるユダヤ人が救出されたといわれる。
1945年1月、ブタペストからドイツ軍が撤退。ワレンバーグは、進駐してきたソ連軍に呼ばれて向かった。しかし、その後消息が絶えた。
一方、日本人外交官の杉原千畝は、リトアニアの日本領事館で、ヨーロッパ脱出を図ろうとするユダヤ人らに日本通過ビザを発給。日本政府の訓令に背き、自らの職と家族の身も危険にさらすかもしれない決断だった。しかし、このビザのおかげで数千の命が救われた。
■「ワレンバーグ・デー」
バンクーバーでは2006年から、スウェーデン領事館、ユダヤ系グループ、関連機関が共催で、1月中旬に「ワレンバーグ・デー」を開催。講演や映画上映を行ってきた。この行事を、2013年、スウェーデン並びにユダヤ系コミュニティーの有志で結成された「ワレンバーグ―スギハラ・シビル・カレッジ・ソサエティ」(Wallenberg-Sugihara Civil Courage Society, WSCCS)が継承した。
理念は、ワレンバーグや杉原のように、身の危険も顧みず、自身の持つ信条や道徳観に従い他者を助けたり不正に立ち向かった人々をたたえ、その精神を啓発していくというものだ。この考えに沿う個人への表彰も行事のプログラムに加わった。
■ 勇気を奮って他者を助けた人々
2015年、第一回の「ワレンバーグ・スギハラ・シビル・カレッジ賞」には、元BC州首相ウ・ジャル・ドサンジ氏が受賞した。
インドで生まれたドサンジ氏は、シーク過激派のカナダでの活動を予告。彼らの武力攻撃を批判することにより襲撃を受け重傷を負った。社会正義と暴力の排除を唱える中、爆弾を送りつけられた経験もある。
2016年は、BC州の先住民首長ロバート・ジョゼフ氏が受賞。
寄宿舎学校に収容され11年間にも及ぶ心身への虐待を受けたジョゼフ氏は、同じ体験を持つ先住民らのためらいやカナダ社会からの抵抗をものともせず、自身が味わってきた苦悩を公表。人々の和解と癒しに身を捧げ、多様な価値観への理解を促すことに貢献した。
■ 命がけの医療援助
今年は個人への表彰はなかったが、国際団体「国境なき医師団」(MÉDECINS SANS FRONTIÈRES:MSF)へ賛辞が贈られた。
MSFは、21カ国に運営拠点を置き、戦争や災害などのため切迫した状況にある70カ国以上もの国や地域で、医療・人道援助を行っている。医師のみならず、看護師、教育者、技術者などさまざまな分野の人々がかかわっている。1999年、ノーベル平和賞を受賞した。
同医師団の一人でバンクーバー小児病院のジョゼフ・コープランド氏が登壇し、アフリカのカメルーンでの3カ月の活動を写真と共に紹介。戦争や紛争の中で民間人や医療援助者が攻撃のターゲットになっている現実を語った。厳しい状況にある人々を助けるため、個人でも何ができるかを考え、声をあげてほしいと会場に呼びかけた。
この後、同医師団の活動を撮った『Access to the Danger Zone』が上映された。MSFが命がけで医療を施す様子や、子供や女性たちの痛みや苦しみが伝わり、コープランド氏が訴えた「戦争にもルールがある」とのことばが重く胸に迫る映像であった。
(取材 高橋 文)
プログラム開始の挨拶を行うWSCCS会長のアラン・ルフェーブル氏
講演中のジョゼフ・コープランド氏