2017年新春特別号

カナダには、「杉原」という日本の姓が特別な響きに聞こえる人々がいる。1940年夏、リトアニアの在カウナス日本領事館で、領事代理の杉原千畝が発給した日本通過ビザを手に、日本を経由、カナダまで逃亡してきたユダヤ系避難民だった人たちとその子孫らだ。

 

杉原千畝(バンクーバー・ホロコースト教育センター提供)

 

■「杉原ビザ」

 1940年7月18日朝、カウナスの杉原千畝領事代理と家族は、領事館を取り囲む群衆を見て驚く。ナチス・ドイツに追われ逃げ場を失ったユダヤ系避難民たちだった。危険なヨーロッパからの脱出には、ソ連をシベリア鉄道で横断し、極東から日本へ渡り、そこから安全な国へ移動するしか道は残っていない。そのため、日本通過ビザを求めている。杉原は苦慮の末、日本政府からの訓令に反し、「人道、博愛精神が第一」と、ビザを発給する。

 日本到着後、最終目的地へのビザを手にした者は去っていき、残った者は1941年8月・9月、日本政府により日本軍支配下にあった上海へ移動させられた。結果、杉原が発給したビザは、露と消えていたかもしれない数千の命を救うことになり、それが今では数万ともいわれる子孫の命へとつながった。「命のビザ」とも呼ばれる所以だ。

■ カナダに来た杉原ビザ受給者

 カナダは、米国、オーストラリア、南米の国々などと共に、杉原ビザ受給者が日本を通過し最終目的地として到着した国の一つだ。

 当時、神戸ユダヤ協会と協力して避難民らの世話をしていた米国ユダヤ人共同配給委員会の調べによると、1940年7月から41年11月の間に日本からカナダへ渡った避難民は206人となっている。国籍の内訳は、ポーランドが186人、ドイツが8人、その他12人。

 ポーランド国籍のほとんどが杉原ビザ受給者と考えられる。その根拠は、杉原が次の任地プラハで作ったカウナスでの日本通過ビザ発給状況のリストで、受給者2、139人の9割以上がポーランド国籍だからだ。戦中・戦後の出入りもあるが、同ビザ受給者とその子孫らがカナダにいることに間違いはない。名乗り出る家族も少なからずある。

 実際、彼らに会ってみると一様にこう言う。

 「あの時杉原がビザを発給してくれたおかげで、今私がここにいる」  

■ 数千人の運命を変えた国際情勢

1 ◆ 杉原一家、カウナスへ

 杉原千畝は、1924年、24歳の時、日本の外務省に採用され外交官となった。

 同33年から35年、満州国外交部移籍中に臨んだソ連との北満鉄道譲渡交渉では、ロシア語をはじめ人並み外れた語学力と調査・情報収集力で辣腕をふるい、日本側に大幅に有利な決着をもたらした。これが原因で、ソ連からペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)の烙印を押されることになる。その後、在ソ連大使館勤務の辞令を受けるが、ソ連は杉原への入国ビザ発給を頑として拒否。そのため、在フィンランド公使館の二等通訳官に任ぜられた。

 そこでの勤めがほぼ2年となる1939年7月20日、杉原は本省から突然の指令を受ける。リトアニアのカウナスに領事館を開設せよというものだった。

 8月25日、杉原一家はカウナスに向けて慌ただしく出発した。

2 ◆ なぜカウナスだったのか

 「カウナスなどに、何のために帝国領事館が必要なのか?」杉原は後年、こう手記に書いている。リトアニアには日本人など一人もいなかったからだ。

 実は、杉原がリトアニアへの異動辞令を受けた同日、他にも4人の外交官が、エストニア、ラトビア、ソ連、ポーランドへの異動を命じられていた。全員が、ロシア通。つまり、ソ連情勢とロシア語のエキスパートたちであった。なぜ日本政府は、急遽この5人をソ連とその周辺国に配置しなければならなかったのか。この疑問を解くには、目をヨーロッパからアジアに移さねばならない。

 それは、1939年5月から9月、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐり、それぞれの後ろ盾となった日本とソ連との間で起こった軍事衝突「ノモンハン事件」に端を発していた。近代兵器を駆使し軍事力に勝るソ連に、日本は惨敗する。そこで、この紛争を外交的に解決しようと、日本はロシア通の外交官5人をソ連とその周辺国に送り情報を集めることにした。選ばれた一人が杉原だった。つまり、杉原のリトアニアへの異動はノモンハン事件の解決を目的としたソ連情報の収集のはずであった。

3 ◆ 状況はどう変わったか

 目を再びヨーロッパに戻すと、杉原一家がフィンランドからリトアニアへ出発する2日前の8月23日、世界を震撼させる事態が起こった。独ソ不可侵条約の締結だ。ドイツとソ連は秘密裏にヨーロッパ分割を話し合っていた。最も不利を被るのは東西を両国に挟まれたポーランドに違いなかった。案の定、9日後の9月1日、西のドイツが、ポーランドの首都ワルシャワに侵攻。第二次世界大戦の火蓋が切られた。

 9月3日、ポーランドの同盟国イギリスとフランスが相互援助条約のもと、ドイツに宣戦布告。

 9月15日、日ソ間でノモンハン事件の停戦合意。さっそくソ連は、アジアでの日本軍との戦いから解放された兵力を、ポーランドの東部国境を前に虎視眈々としていた部隊に送り込み、同17日、一挙に侵攻。ポーランドは、ドイツとソ連に分割されてしまった。

 一方、8月25日、フィンランドを発った杉原一家は、同28日にリトアニアのカウナスに到着。しかし、間もなくノモンハン事件は終了。その頃にはヨーロッパの様相もすっかり変わってしまっていた。そして、杉原の諜報活動は、ソ連からドイツへと。同時に、ナチスによるユダヤ人迫害の話が耳に届くようになる。

4 ◆ なぜポーランド国籍が多かったのか

 ポーランドは戦前、ヨーロッパでは最多の325万のユダヤ系人口を抱えていた。(そのうち300万人がホロコーストの犠牲となった)

 後に杉原ビザ受給者となりカナダに来たユダヤ系の人々は、大戦勃発時、どうしていたのだろうか。

 「8月31日、すでに不気味な気配を感じたので、南へ向かう最終列車に乗って町から脱出した」

 「9月1日、ラジオで、ワルシャワから退避するようにと聞いたので、家族全員、車に乗って出発した」

 「まず若い男性が捕まるという噂が流れたので、兄と逃げた」

 逃亡を始めたユダヤ系ポーランド人が思いついた行き先は、東の隣国リトアニアの街ビリニュスだった。そこは当時ポーランドが占領していた。多くのユダヤ人が住み、「ヨーロッパのエルサレム」と呼ばれるほど文学、音楽、絵画をはじめとするユダヤ文化にあふれていた。

 また、本来ビリニュスはリトアニアの首都であったが、ポーランドによる占領のため、政治や外交などの首都機能は別の街カウナスに移っていた。そのため、カウナスで書類を整え、ここからヨーロッパ脱出を図ろうとする者もいた。

 「父がビリニュスからカウナスに何度か行っていた」と、当時10代だった杉原ビザ受給者が言う。

 1940年6月、ソ連はリトアニアに進駐。8月、併合。ソ連は、各国大使館や公館にリトアニアからの退去を命じた。開いているのは、同7月下旬から、押し寄せた避難民たちに日本通過ビザを必死になって発給している日本領事館のみ。最後の望みをかけ、さらに多くの避難民たちが日本領事館を目指した。こうして、日本通過ビザの大量発給へと事態が動いたのであった。  

■ 逃亡のはてに着いたカナダ

 杉原から日本通過ビザを手にした避難民たちであったが、その後も次々と難題に襲われる。

 シベリア鉄道乗車に必要なソ連通過ビザは、ソ連秘密警察で受給しなければならないという恐怖。同鉄道の切符は、一人150ドル(当時)という高額を米ドルで支払わなければならない驚き。パスポートなどの書類不備のまま日本上陸を前にする不安。期限ある日本滞在中に最終目的地へのビザを探さなければならない焦り。

 一方、当時カナダはユダヤ系避難民に対して、厳しく門戸を閉ざしていた。それでも、限られた可能性を手繰り寄せ、戦中のみ同国滞在が可能なビザを獲得した人々は、神戸や横浜の港から出航。太平洋に出て、バンクーバーに向かった。

 こうしてカナダに着いたユダヤ系避難民たちは、新天地でどのように生活を築いていったのだろうか。その長い旅路の経過を、4年間の取材をもとに報告する。記事はバンクーバー新報1月19日号より隔週で掲載予定。

(取材 高橋 文)

●参考文献
渡辺勝正『真相・杉原ビザ』大正出版、2000年。
杉原幸子監修、渡辺勝正編著『決断・命のビザ』大正出版、2001年。
白石仁章『杉原千畝・情報に賭けた外交官』新潮文庫、2015年。
JEWCOM Kobe Report “Emigrations from Japan, July 1940 - November 1941”The USHMM Archives.

 

カナダに着いた杉原ビザ受給者の身分証明書に作られていた杉原の手書きによる日本通過ビザ。昭和15年8月1日発給(アイリーン・ヘンリー提供)

 

カウナスに今も残る旧日本領事館の建物(2012年6月、高橋文撮影)

 

カウナスの旧日本領事館の門(2012年6月、高橋文撮影)

 

現在、カウナスの旧日本領事館は「杉原記念館」になっている。写真は、杉原が日本通過ビザを発給した部屋(2012年6月、高橋文撮影)

 

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