このカナダ緊急医療援助チーム(CMAT)は完全なボランテイア組織のNGOで今回のチームは11名から成り放射能の専門知識を持つ緊急医療専門医、看護士、救急員と私(通訳兼 作業療法士)で構成されていた。私の一義的な任務は通訳であったが日本とカナダで作業療法士として働いた経験がこのたびの任務で役に立った。CMATの目的として“自然災害にあたり、医療行為を通して人間の尊厳を保ち、苦渋を軽減することで、被災した社会の再建を援助する”とある。CMATの運営は寄附に頼っている。今回もバンクーバーの中国仏教ロータス協会から、持参する浄水機への支援の寄附をいただいた。隊員の航空費は自前である。 
バンクーバー空港でチームを 結成しJALで日本に向う。成田到着後、東京で4時間かかってガソリンを調達した後、マイクロバスで北上し石巻の専修大学キャンパスのベーステントに入る。着いた直後、市内の避難所から往診の要請があり、医師、看護士とともに向かう。始めて見る津波災害の光景は凄絶で私は言葉を失った。水道も電気もない小学校の教室にたくさんの人々が体を寄せ合うようにして寝ていた。被災から 十日がたち、食べ物はあるというけれど水の使用は限られ、身動きも思うようにできず、疲れがにじみでている。たくさんの被災者が悪寒、胸の痛み、咳きなどを訴えている。CMAT医師の診断によるとその人は肺炎を起こしかけているということで、日本のボランテイアの方に頼み石巻赤十字病院に連れて行く。石巻の日赤病院はすでに立て込んでいた。それでも日本中の赤十字支部から多くの職員やボランテイアがかけつけており、すでに統率のとれたサービスが提供されているようであった。 CMATの役割は、手の回っていないところを援助するということで、その後、私達はチームに分かれ周辺部の小さな避難所や避難センターを廻った。
道路の倒壊でしばらく孤立していた尾勝町水浜や水上町相川に保育所を利用してつくられた避難所では、皆さんが力を合わせて援け合い支えあっている。その力強さとしたたかさ、創造性には胸をうたれた。破壊された家の資材を燃して火をつくり食事をつくっている。壊れたガソリンスタンドからガソリンを集めたり山からパイプをつないで清水をひいたりしている。その中心となっているのは 四、五十代から上の世代で、若者たちがあとに続いている。私が今回改めて学んだのは、日本社会の根幹となっているこの共同社会原則の存在だった。欧米の個人主義と較べられる、共同社会概念がこのような危機的な情況にあったとき、いかに強い支えになるかと言うことである。ただ、この共同社会原則は 長期にわたっても変わらずに支えと成り得るのだろうか。それとも個人の感情や個人レベルでのニーズを犠牲にすることにはならないのだろうか。わたしはこの共同性がいい意味で続いて復旧の支えとなり続けてほしいと思う。

 

水浜の避難所ではたくさんの女性が生き生きと働いていた。 なんだか明るいようにも思えて意外だった。でも、ひとりの方が”私は妹を失くしたんだけど、考えていても仕方がない。こうやって前向きに 生きていかなくちゃいけないと思ってね”というのを聞いた時、この小さな漁村が必死に耐えているのを知った。子供を両親に頼み村に残っている看護婦は近隣の町の病院が全壊し二人いた医師も津波に呑まれてしまったことを話した。自分も子供をひとり背負ったまま、ほかのひとを何とか助けたという。多くは語らなかったが手首を切ろうとしている若い女性がいて心配だと言った。
雄勝の村落の被災跡に立った時は息を呑んだ。津波の破壊的な威力の大きさを初めて知り身が震えた。こんな光景はみたことがないと思った。その瓦礫の下にたくさんの生活の明かし、人生の証しが埋められている。私達は自衛隊の方々と話し遺体捜索のお手伝いを試みたが、山と積まれた瓦礫と家々の残がいは特別の器具や機械を必要とするようであった。ご遺体が瓦礫の下、倒壊した家屋の中にあることを感じつつ、回収にむけることはできなかった(自衛隊の方にご遺体があると思われる位置をお話してその場を離れた)。日用品や、おもちゃ、衣類などの残がいに、災害前の生活がしのばれ、そして、亡くなった方々やご家族の方々の無念がしのばれ、胸が痛んだ。
日本の救急医療と災害対策が確立していることを知ってCMATは予定より早く任務を終えることになったが、現地を離れる前に、相川の避難所に浄水機を設置することになった。この浄水機はバンクーバーの中国移民仏教組織、ロータス協会からの寄付金の援助を得てCMATがカナダから空輸持参したものである。相川の漁村は津波により破壊されたが、保育所に避難所をつくり共同体の精神でがんばっている。水道設備が全壊したあと山から水をひいていたが、浄水機の設置により、たくさんの人々に長期にわたって安全な飲料水がまかなわれるということで 村の人々と協同作業で設置が行われた。ここでも漁村の人々の強さ、逞しさと、創造性に感動した。浄化した水を貯える大きなタンクが必要と言えば海から撤収してこられる。ポンプにつなぐパイプのサイズが合わないとなれば、さっそく火をたきパイプのサイズを作り変える。そしてチームが逢った人々はどこでも暖かかった。  
今回の体験で私が学んだことはたくさんある。まずは国境を越えての援け合いということは 意味があるということ。援けられる、援けるという関係性は固定的なものではない。援け合いの行為の中でお互いが学び理解しあい人間としての共感関係が生まれる。私はそれを尊いものだと思った。私の同僚のカナダ人たちは、東北の人々の強靭さとあたたかさにうたれ、もっとここにいたいと言った。たくさんとの日本人ボランテイアの方々にもお世話になった。その方々の助けなしにはできなかったCMATの仕事である。言葉の通訳は言葉だけではない。それは相手の文化、習慣とコミヌケーションのありかたを理解し、伝えることである。いわば、異なる文化のあいだに橋をかけるかけること。私にとってはOT(作業療法士)としての経験を通して状況をよく見極め、どのようにコミヌケーションを促通したらよいかということでもあった。 ボランテイアは”してあげる”仕事ではなく、受ける側の人がすることを”実現する”、”援ける”仕事である。これほどの大災害の中でも人々は逞しく適応して生きている。どこにニーズがあるかということを見極め、どうしたら最も効果的な方法で援助はできるかということは常に考えていかないといけない。


復旧への道のりは長い。その長い道のりのなかで、これからまた新しい挑戦が出てくるだろう。お年寄りの方達、障害を持った方々、みなそれぞれこの情況の中で適応して生きていかなくてはいけない。ストレスなど精神的な挑戦を抱えておられる方々も多いと聞いた。日本は戦争、そして、被爆から立ち直り豊かな国を築いた。援助をもらう側ではなく与える側に立ってきた。それが今回立場が転換した。日本におごりは無かっただろうか。私達は贅沢すぎ、この贅沢になれきってそれを当然と思ってしまっていはしなかったか。これを機会になにが本当の意味で豊かということなのかを考え直してみたいとも思う。
今回日本に与えられた試練は世界に与えられた試練だと思う。世界中の国々が皆で協力して克服し乗り越えていかなくてはいけない。私はまた機会があったら、日本に行き、日本の皆さんのために共に働きたいと思う。

 

渡辺聖子
CMAT、作業療法士 
2011、04,17記

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。