「がんばれJapan」の言葉を背に走る多くの日本人ランナーとそれを支えた日本人
今年のバンクーバーマラソン記念Tシャツのデザインを、日本人の堀江正さんが務めあげた。堀江さんは以前に本紙取材した「がんばる日本プロジェクト(以下GNP)」の一員でもある。その堀江さんがデザインした「がんばる日本Tシャツ」を着た、多くのランナーも見られた。GNPスタッフの村木将臣さんは、「今回の震災に対して、海外にいる自分たちが日本のためにできることをとにかくしたいと思った。(GNPを通して)人との出会いが国境なく繋がっていけたら」と語り、今後もGNPの活動を通じ、支援する意気込みを述べた。その思いをのせたTシャツと共にバンクーバーをかけたランナーは、沿道の暖かな声援とともに、駆け抜けた。がんばれ、日本。
「走り終わってみて、バンクーバーがとても綺麗な街だということが、よくわかった」
元陸上競技選手で、現日本陸上競技連盟女子マラソン強化部長の金哲彦氏は走り終えた後、さわやかな表情でそう語った。多くのランナーも口を揃えて、そう語るように、五月晴れのバンクーバーは、潮風に揺れるダフォディル、駆け抜けた桜並木、グラウスマウンテンの残雪、スタンレーパークの圧倒的な木々、銀色に輝くキツラノビーチ。「世界一住みやすい街」と呼ばれる所以を全ての参加者に、その眩さを見せつけた。
奥さんと共に走る83歳の終わりなき人生のマラソン
80歳以上部門で優勝した水谷良三さんは、唯一の80歳以上のフルマラソン完走者だ。水谷さんは去年のベルリンマラソンでも、最高年齢賞を受賞した。今回のバンクーバー来訪も、マラソンのために一人でやってきた。「この歳になると、周りにスポーツをする人はいないんだ。でも、マラソンは一人でできるから、いいんだよ」と白い歯を見せながら笑った。そんな水谷さんのウエストポーチには、三年前に他界した奥さんの綺麗で優しい笑顔の写真が入っている。奥さんがガンで倒れた病床、水谷さんはその美しい妻にこう言われた。
「死ぬまで駆けなさいよ」
そして、彼女が亡くなった翌週のマラソン大会、水谷さんは走った。
「これからもまだまだ走り続けるよ」と話す、水谷さん。メダル授与式の階段をしっかりとした足取りで上る。写真の入ったウエストポーチと共に。ずっと一緒だ。メダル授与の間、胸を張る水谷さん。拍手が鳴り響く。胸元に光る金メダルは、この日のバンクーバーのように、きらきらと輝いていた。
日本と共に完走したランナーの詩
「鼻がしびれた。しばらくすると顔がしびれた。
走るのを止めた。歩いた。というより足を前に出し続けた。
手足もしびれた。身体まで全身しびれた。
今感じられるのは胃の感覚だけだ。それも締め付けられる感覚。
紙コップに水をもらった。100ccもないだろう。半分飲んだ。残り50cc。
こんな重いものとても持てない。
沿道の声援に応えて手を上げた。
その後、手を上げているのか下げているのか、腕を実際に見ないと分からなかった。
それでも前に進むんだ。涙がにじんだ。
手足の感覚が少し戻ってきた。
歩く速度を少しあげた。またしびれた。
体力はあるが、エネルギーがない。
再び走り始めたい気持ちだけが前に行くが、身体に自分の感覚は宿っていない。
少しましになって下り坂でトボトボ走る動作をする。足がほんの一瞬攣って戻る。繰り返す。これはいけない。
以上、38-40km地点
がんばれ、日本。
がんばれ、東北。
でも頑張り続ける必要はない。無理なら休めばいい。
ただ、前を向いていれば。
この区間はそれを強く感じて進んだ。
40km地点、友達の応援により疲れは風に飛ぶ塵のようにあっと消え失せた。
今思い出しても何が起こったのかわからない感覚やった。
元気なときは頑張れ。疲れたときは前を向いて休め。
前を向いていれば、頑張らなくていい。前には必ず光がある。
応援してくれたみんな、ありがとう。」
この文章は、日本国旗を背にまといながら走り続けた有馬康次さんから寄せられたもの。有馬さんはゴール後、「フレー、フレー、日本!がんばれ、がんばれ、東北!」のエールを送った。
(取材 幸森理志)