2018年4月26日 第17号

 時は1960年初頭、場所は香港の啓徳国際空港。お洒落なユニフォームを着て同年輩の多国籍の仲間と楽しく働いていたのは、元少女、今は老婆。50年前は若かった。ある時、桜楓会会長の久保さんが「『老婆』でなくてさぁ、『元少女』にしたらぁ?」と言ってくれた。

 当時、この空港に働く日本人は日本航空にはいたが、元少女はよく知らない。一人だけ知っていたのは、「滝田さん」。後に毛沢東の文化大革命時に領事館と一般日本人が「隣組」という助け合いの会を作り、万が一の時、日本人は日本航空機で帰国用意をしていた。その日航の空港所長の滝田さん。彼には随分お世話になった。そうそう、若い新米空港職員の私をエアーフランスの鈴木さんは可愛がってくれ、パーティーに「着物を着たい」というと彼の美人奥さんが着物を着せてくれ、後に私が出産し、赤ちゃんを連れて彼の家へ行くと、沢山ご馳走して下さり、「澄子さん、立派な赤ちゃんだ!まるで弁慶みたいだね」と彼は言った。(私の赤ちゃんは女の子よ、なんで弁慶!)

 英国航空(BOAC)の◯さん、彼、若く素敵な人だったが、ちょっと女性ぽかったなぁ。そして、ルフトハンザの◯◯さん、後に私がジャーデーン英国航空からルフトハンザに転入社、入社初日、ご挨拶を日本語ですると彼、英語で『I tell you what the official language of this company is German and English, Remember!』と言った。意地悪この上ない。しかし、結構、かっこよい人ではあった。半世紀以上たった今思い出しても、「いやぁなやつ」。

 とにかく、そんな時代だった。香港は長年英国の統治下にあり、中国人は10年働いても変わりないが、英国人は無経験でも入社後、1週間たつと「スーパーバイザー」になれた時代だった。英国人は強かった。彼ら、仕事のやり方は私情を入れずしっかりしていて私は好きだった。

 空港前に何重にも広がる道路を渡ると「九龍城砦」だ。私達は≪カウルンシン≫と呼んでいた。そこは英国の租借地から外され中国にもイギリスにも法治権がなく、文字通りの「無法地帯」で悪の巣窟といわれる怖い場所、一般的にいえば難民街、スラムであった。

 ある時、夫とそこの寺へお参りに行くことになった。ご利益があると言う。スラムのビルとビルの間に車を入れ、ゆっくり、ゆっくりと運転中、急停車。夫が車から降り、見ると車の前方に子供が倒れている。つまり、子供の「当たり屋」だった。夫はすぐに車中の私に手元のたばこ1箱を指さし「この中に50ドル入れてくれ」そして、「しっかり車の鍵を掛けるのだ」と言った。早速、私はたばこ箱に50ドルを入れ彼に渡した。

 警官が来て夫は数分彼と話し、すぐに病院へ子供を運ぶことになった。しかし、その時、車の周りには身動きが取れない程、大勢人が集まっていた。もう一人の警官が誘導し、やっと我々の車はパトロールカーについて病院へ行った。無論、子供に怪我はなく何事もなかった。翌日、その時の警官から電話があり、「日本のたばこをありがとう、中に50ドル入っていたよ」と言ったそうだ。夫は昨日のお礼を言い、「面倒だからお金はそのままにして下さい」それで事は本当に全て終わった。しかし、あの大勢の人だかり、一瞬で暴徒に変わる、そんな恐怖にかられ、すっかり肝をつぶした元少女だった。しかし、我が夫、若いのになんとその冷静さ! ああ、頼もしかった。

 そして、ある日、元少女は空港で同僚と雑談中、いろいろ話が進み「九龍城砦に盲目の占師がいる」、「凄く当たるから行こう」と話がきまる。「九龍城砦」へ行くのは経験上とても怖かったが、占い師にも会いたい。結局、数人で意を決して行った。「占い師」の所はビルの5階、無論エレベーターはない。テクテク階段を上り5階に着く。踊り場から近いドアが開いて中へ通される。部屋の両面がなんと3段式ベッドだった。つまり、その一部屋には6人が寝泊まりしているのだ。しかし、そこは何もなく唯々ガラーンとして全く綺麗だ。1ケ所端に窓、その窓横に小さなテーブルがあり、占い師が窓際に座り占ってくれる。我々は折りたたみ式の丸い椅子に座って順番を待つ。

 やがて私の番になった。「子供が欲しい」と言うと、大丈夫だと言った。「最初の子は女、そして大変親孝行になる」と嬉しい事を言った。

 それが実に本当になった。エアーフランスの鈴木さんに「弁慶」と言われた「娘」である。

許 澄子

 

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