2017年2月9日 第6号

 ある日学校(高校)で友達から、「澄子さん、あなたのお母さんが雑誌に出ているの知ってる?」と声をかけられた。「知らないよ。へぇ、何で私のお母さんが雑誌に書かれるの?」。友達は、以下のように雑誌掲載について話し、後日その雑誌を私にくれた。

 私の父は終戦直後、40歳前に生後11ケ月、4歳、10歳、12歳の子供4人と年老いた舅を残し僅か3日間の入院後、腸閉塞で亡くなった。父が残した駅前の広い土地はヤクザがブラックマーケットを建て、自由に使えなくなっていた。父は徴兵から戻った頃、そのマーケットで何か商売をしていたらしいが、母は4人の子供の面倒と家事で精一杯で仕事はしていなかった。

 父の急死後どうやって生きていったら良いか途方にくれた母が急遽考えたのはブラックマーケットの土地から収入を得る事だった。雑誌に書かれた内容によると、母がどのように親分と交渉したかは知らないが、とにかく幼い子供を連れ、出刃包丁を持ってヤクザの親分(組名は伏す)の所へ行き、土地を返せと談判した。「もし、返さないなら自分たち親子全員殺せ!」と言ったらしい。そのすさまじさに圧倒されたのか、あるいは母の苦境を理解したのか、親分はこう答えた。「その土地は返せないが、代わりの土地をあげよう」。その土地はブラックマーケットより狭かったが、山手線池袋駅に更に近くなった。その後区画整理があり、商店街で三越百貨店の3軒隣になり、それなりの土地を持つことになったのだ。

 最初はヤクザから返されたというか、貰い受けた土地を切り売りして生活していた母だったが、場所が場所である。彼女はそこで慣れない商売を始め、女手一つで老いた舅と4人の子供を育てているというのが記事の内容だった。

 その話を友達に聞いた日、「あのね、お母さんの苦労話が雑誌に出たね。お母さん、ああいうの書いて雑誌社から何もらったの?」と私が聞くと、母はさりげなく「うーん、風呂敷1枚」と答えた。雑誌の2ページにわたって掲載され「風呂敷1枚」。ふーん、そんなもんかぁと思ったのを覚えている。

 とにかく、そのヤクザから譲り受けた空き地に母が家を建て、そこで商売を始めた最初の頃、1階の半分は床屋さん(理容店)だった。夜8時には店が閉まる。近所に数軒あるパチンコ屋の景品買いのお兄ちゃんたちは皆、◯◯組と言っていた。彼らは毎夜閉店になった床屋に集まって、それぞれのお金の勘定をする。

 母はそれに対して一切彼らに謝礼を望むことがなかった。長年、気持ちよく場所を提供していた。だから、私たち、姉弟妹4人はいつも彼らに守られていたようだ。何かあると「◯◯さんのところの子供たち」と、飲み屋とパチンコ屋と何だか怪しげな店が立ち並ぶ商店街でヤクザに守られて育ったのかもしれない。

 以前私は「老婆のひとりごと」に書いたことがあるが、正直なところ裁縫以外何も知らない4人の子供を抱えた30代の主婦が、夫に死に別れ、83歳で他界した時、地上5階・地下1階の小さな商業ビル、駅から10分ほど離れたところのコンクリート3階建てのマンション、また都内で車10数台駐車できるパーキング場、軽井沢にホリデイハウスを残していた。どれほど必死でがんばって生きたことだろう、本当によく働く母だった。

 もう一つ思い出がある。母の苦労の真最中から10数年以上経ち、結婚した私が夫を連れ、実家へ行った。盛り場の賑やかさに慣れない夫だが、何を思ったか、一人で真向かいのパチンコ屋へ行った。なぜ夫が私たち◯◯家の家族と分かったのだろうか? パチンコ屋のスタッフが玉の出る機械を夫に紹介した。そしたら出るわ出るわ、玉でいっぱいになった箱は山のようになった。やがて、さらには通路にまで積みあがった時、夫が私を呼びに来た。「凄いことになったんだよ、来てみろ」というのだ。彼について行くと、本当にすごい。結局夫は半日そこのパチンコ屋で遊ばせてもらい、たまった玉は景品に変えずに返したようだが、あんな経験って、彼にとっては生涯忘れられない思い出となったうれしい出来事だっただろう。ヤクザの大切にする「義理」を感じざるを得なかった。

 母とヤクザの関係はあの怪しげな土地柄だから良い関係であった方が良い。特に女一人そこで生きていくのには必要必然だっただろう。いわゆるヤクザの下っ端「チンピラ」を母が守り、大事に至っては親分が母を守る。終戦直後、夫の死から始まった、命がけの母の生き方がきっかけで、そんな関係がずっとつながっていたのだろうか?  でも私は「顔の中心から耳の方に指でスーッと線を書く」、それがヤクザの意味だとは、カナダで美しいヤクザ夫人たちに出会うまで知らなかったのだよねぇ…。

(「老婆のひとりごと・18編・ヤクザの城」を参照のこと)

許 澄子

 

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