2017年2月23日 第8号

 人に誘われたわけでもない、そして、理由もない。しかし、どうしても行かなければならない。そう思ってある時、サイセンターの日本全国大会に参加した。誰一人として知る人もいない、当時サイババについての知識があるわけでもない、本当に理由がない。しかし若かった当時の老婆はバンクーバーからはるばるその大会に参加するため、広島県福山市へ向かった。大会で講話が始まっても、なぜ自分がこれほどの強い思いで大会に参加したかったのかが分からなかった。

 会場は広々として気持ち良い。寝室がどうだったか、誰と一緒だったか、今はなにも覚えていない。ただ、広々とした庭と階段を何度も上り下りしていたから、かなり上階だった。数百人の人が集まっていた。講話が始まると最初に若く美しく聡明そうな女性が話をした。話し終わると誰かが「あの人がHIRAさんの婚約者だよ」と教えてくれた。当時の日本サイセンターの中心人物だそうだ。1泊か2泊か福山に泊まり、たくさんの講話を聴く。

 その講話の中で、米国のカリフォルニアのサクラメント近くの小さな村、「コルーサ」に住むインド人の家で「ビブーティ(聖灰)」、「ホーリーウオーター(聖水)」、「アムリタ(聖蜜)」がその家に飾られたキリストやサイババの写真から出る、そんな記録の映像を観た。その時私は「あっ! これだ。だから私はここへ来た」と分かった。 その時、肝臓がんの末期で苦しむ最愛の母に、何としても「聖灰やアムリタ」を飲ませてあげたかった。

 カナダへ帰国してすぐに、私はカリフォルニアの小さな村「コルーサ」を訪ねた。やっと訪ねた「コルーサ」の家では、ビデオで見たとおりの奇跡を肉眼で見て体験した。帰りに3〜4センチ大の小さなプラスチックの容器に入った聖水3個、聖蜜3個、聖灰3個を重ねてそれぞれを紙の袋に入れて、さらに空き瓶何本かに入れた聖水を飲むようにと下さった。フィジーからの移民でそれは優しい人たちだった。

 私はいただいた9個の聖灰、聖水、聖蜜を必要な人に分け、残りを持って日本の母を訪ねた。母は肝臓がんプラス転んで大腿骨骨折で入院していた。当時、オウム真理教の事件があり、サイババも怪しげな宗教と思われていたから、私が持ち帰る物を母に飲ませたら、毒を飲ますと思われる可能性もある。結局、数日は飲ませる機会がなかった。しかしある日、病院で朝7時の朝食の世話をする当番が私に回って来た。早速、手持ちのアムリタを母のナイトテーブルの上に置いた。食事が終わってふっと気が付くとさっき置いたはずのアムリタがない。「どうしたの?」と母に聞く。母は「ああ、あれね、便秘の薬だから飲んだわよ」というのだ。そう言われてみればいつも飲んでいる彼女の便秘の薬と同じ色で、同じ入れ物だった。

 何となくホッとして母の寝ているベッドの脇の椅子に座ったまま、半身倒して両手を伏せてスーッと眠った。

 数日後、私はなぜか「母が必ず良くなる、退院できる」と確信し、カナダへ戻った。思ったとおり、それからまもなく母は退院し、一カ月程してから、また母に会いに行った。普段、母は駅前の便利な、でもエレベーターのないビルの4階に住んでいる。空港から4階にある母の部屋に着き、電話をかけた。無事退院した母だったが、退院後はまだ体が不自由で階段が無理だったので、駅から離れた和室のある手持ちのマンションの1階に移動したという。母はすぐ会いに来いと言う。遠路はるばるカナダから来て疲れているから、明日会いに行くと言っても、母はどうしても今日会いたいというので、15分ほど歩いて会いに行く。翌日は彼女を車いすに乗せ、買い物にも行った。

 11月、母は肝臓がんの末期で、大腿骨骨折、医者が手術すら危ぶんでいた患者だった。それから2カ月経った今、目前の母は身動きこそ不自由だが元気なのだ。そして、初夏にはビルの4階に戻った。階段を4階までぼつぼつと上って下りて、毎日生活できるようになったのだ。退院後、そして彼女が他界するまでの1年半、遠く離れて暮らす私でも彼女を訪ねるたびに、多少は親孝行らしきことができた。誰がどう思ってもよい、それはサイババの下さった「ありがたい時間のプレゼント」だったと、私は今も思うのだ。

 考えてみれば、1980年後半か1990年の初めだったか…。日本からやって来た桐島洋子さんの今は亡き夫、勝見洋一氏が突然「澄子さん、サイババって知っている?」。私は「知らなーい、なーにそれ?」で始まったサイババとの奇妙な縁だった。不思議なことの連続で、もう30年近く時が経つ。勝見氏もサイババも皆他界した。

許 澄子

 

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