イラスト共に片桐 貞夫
タケが自らの身上のことを喋っている。口に出すこともつらい思い出ではあるがタケは一部始終を喋り終わろうとしていた。たばこ売りの金次はしゃがんで黙っている。近江屋の方に身体を向けたまま、身じろぎしないで夕日に半身を染めていた。
「でも、今はしあわせ。こういう生活があるだなんて知りもしなかった。井戸の水でご飯を炊いて、畳の上で寝て、金次さんみたいな人と知り合えて」
口はむしろ重い方なのであるが、タケはあえて思ったことを言葉にした。人とむつみあうささやかな幸せや、生きるという喜びを金次に分からせなければならないとタケは思うのだ。
しかし金次は反応しない。一つのあいづちも打たない。
知り合ってまだ三つきにもならないタケは、金次の素性どころか盲目ゆえにその容貌も知らない。なにも知らないと言ってよかった。しかし、金次の非情な生い立ちだけは判るのであった。だからタケは話した。半身不随の父親に一家心中を強いた四人の博徒を討つため、幼いミネと地に寝、草を食んで復讐の鬼と化した十年の獣の思いを隠さず明かして、金次の胸内にとぐろ巻く、黒い苦衷を吐き出させようとしているのであった。
しばらく間をおいてからタケが夕焼け空に顔を向けた。
「わたしたちを救けてくれた人なんだけど、おリュウさんていうの」
タケとミネの姉妹は、博徒の一人に殺されるところを奇妙な武術に長ける女に助けられた。
「おリュウさんは琉球の人なの。琉球で大変なことがあって、十五の時に一人で逃げてきたんですって。おリュウさんは吉田裏のそでなし長屋でめしやをやってるんだけど、安くって滋養があってすごくおいしいのよ。金次さんも訪ねていったらいいわ。つらい時、おリュウさんに会いに行ったらいいわ」
きょうも赤とんぼが舞っている。からすがいつもの方向に帰っていく。
「はなしは変わるけど…」
タケが声を低めて言った。
「金次さん、幽霊のこと聞いた?」
「いや」
「いまどき幽霊もないもんだけど、戸塚の宿に幽霊が出るんだって。それがどこに出ると思う? この近江屋なんだって。この前の近江屋にでるそうよ」
「……」
金次はなにも言わない。タケの言っていることを聞いているようにもみえない。
「あたしは信じないわ。幽霊なんているわけないと思っているわ。でもねえ金次さん、いま宿場中の評判なの。みんな知ってることなのよ。あたしは幽霊だなんて信じないけど、こうやって宿場中のうわさになるっていうことはなんかあるのよ。近江屋は、なんか人に恨まれるようなことをしたからこんなうわさがたつのよ。金次さんそう思わない? だってそうでしょう。番町のお菊にしても、四谷のお岩にしても、ひどいことされたから恨みに思って幽霊になって出てきたのよ」
「…」
しかし、金次はうつむいたまま動かない。一言も言わない。
「幽霊のことなんかどうでもいいんだけど、ひとつ困ったことになってきたの。定吉さんが、この屋台の場所は変えた方がいいって言い出したのよ。幽霊騒ぎで近江屋のすぐ裏はまずいって。…まだ二、三日変えないけど、金次さん、場所を変えても来てくれるわね。新しい場所にも来てくれるわね」
「うっ」
答える代りに金次が喉を鳴らした。
「うっ、うっ」
こみ上げてくるものを抑えている。
「お、おれも…」
「どうしたの」
「おれも、おれも、こ、殺されそうになった」
「えっ」
「親に殺されそうになった」
いつもと違う金次の声が異様なことを言った。
「母ちゃんに、この喉を刺されたんだ」
金次が自らのあご下に手をやって示すが傷痕はタケに見えない。
「そ、そん時の顔は忘れられねえ、そん時の母ちゃんの顔は」
「わからないわ。わからないわ。どうして、どうして金次さんのお母さんが、…どうして、どうしてそんなことが…最初っから言ってくれないとなんにもわからないわよ」
「…」
(続く)
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