イラスト共に片桐 貞夫
世間体を思って自殺を隠匿することは世の常であるが、どうゆうことなのだろう。本当なのだろうか。そして、本当だとすると、なぜ死ななければならなかったんだろう。
しばらく首をかしげていたリュウが声音を変えて言った。
「定吉さん、あたしゃ幽霊を信じない。幽霊なんかいるわけがないと思っているよ。けんど今度ばかりは違う。近江屋の幽霊はほんとかもしれないよ」
「へえ」
定吉は浮かぬ顔をしてリュウを見た。そしてリュウの次の言葉を待った。
「じつは、立願寺が死んだ。殺されたんだ」
「えっ、…りゅ、りゅうがん?…あかくびの親分が?」
戸塚から東海道を東に二里、境木村を根拠に縄を張る一名「あかくび」こと立願寺の辰蔵が、三反田から上大岡、磯子村を結ぶ一帯でその名を知られるようになったのはこの十年、平塚の貸元、木曽呂の金五郎も一目おくようになっていた。弘化になってこの方、なかば公然となっていた寺僧の女犯に目をつけた辰蔵は、坊主たちを脅して策謀した。寺社の一部を鉄火場にして使い、てら銭を倍増して威勢を張るようになっていた。リュウは、その辰蔵が殺されたといっているのであった。
「だ、誰す、やったんは」
定吉が訊いた。
「女なんだよ」
「おんな?」
女というだけでとんと誰だかわからないんだ。もう、十日ほど前になるらしいんだが、辰蔵が妾女と寝ているところにその女が入ってきて、いきなり斬りつけたらしいんだよ」
「そいつあー知らなかった。女がねえ。そんなことがあったんですかい。…けんども、あかくびの親分ともいえるご仁がいったいどうしてみすみすと。…その殺ったっていう女っていうのはどういう者なんすかねえ。いったいどういったわけありで殺ったんすかねえ」
定吉がしきりに首をかしげている。
「なんにもわからないんだよ。わかってることは下手人は女で、おかくびの喉元を掻き切ったてぇーことだけなんだ」
「喉を? …喉を掻き切った?」
「そうらしいんだよ」
「ところで、そのあかくびの親分と近江屋の幽霊がどういう?」
「ん、…立願寺は喉を掻き切られていちころだったんだが、ほっぺたも切られていたんだよ」
「ほっぺた? ほっぺたも切られてた? ちょいと待ってください。どういうことなんです」
「いやだから、刃物でほっぺたが切り裂かれていたんだよ」
「するってーと、なんすか。やっぱりこうやってほっぺたが…」
定吉が、左右のほほを手刀で切る動作をした。
「そうなんだ。ばっさりなんだ。近江屋の幽霊と同じなんだよ」
「そ、そんな…」
絶句している定吉にリュウが続けた。
「定吉さん、近江屋のことなんだけんど、もう一度、頼まれてもらいたいことがあるんだよ」
「え? ええ。そりゃなんなりと」
「その、近江屋にきた婿のこと、もう少し探ってもらえないかい。どこから来て、どういう人間だったのか。てめえで首をくくったってーのはまっこっとなのか。そうだとするとどうして死ななくっちゃーならなかったのか。そいから、その四つのわっぱだけんど、これも少し知っておかなくちゃーならないと思うんだよ。どこからもらってきて、誰の子なのか知りたいんだ。難儀なことで大変なのはわかっちゃーいるが、あたしゃ、これがただのお化け騒ぎとは思えないんだよ」
「わ、分かりやした。二、三日かかるかもしれやせんが」
「いいんだよ。急がないんだから」
「そんじゃ、あっしはそろそろ」
定吉は別れを言うと、「カー」と喉を鳴らして痰を吐き、尻をはしょげて、まだ暗い闇の中に吸い込まれていった。いちばん鶏が啼いたのはそれからしばらくしてからであった。
三、
「思うことは親兄弟の仇を討つことだけ、暑さも寒さも感じないの。なにを食べても味がしなかったわ。死ねたらどんなにいいかって思ったのは毎日のことだった」
(続く)
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