2019年3月7日 第10号

バンクーバーのレストランで、日本人シンガーのジャズライブがあった夜のこと。まばらな聴衆の中、ひときわ温かい眼差しでステージを見つめている女性がいた。ステージが終わると、その女性はシンガーに近づいて自己紹介とともに明るく応援のメッセージを伝えていた。その姿に惹かれて記者が声をかけると、そのカフェ兼レストランのことを「私の隠れ家なんです」と女性は語った。ますます話を聞きたくなった。

高齢者になってからの居住地としての日本を探る

 青山幸子さん(72歳)はカナダ人の夫と東京で知り合って結婚し、1990年にバンクーバーへ移り住んだ。夫は会計の仕事を継続し、幸子さん自身は移住当初、部屋の賃貸業を手掛け、現在は投資を生業としている。オフでは友人との交流を兼ねたレストランの食べ歩きや、野に咲く花の写真撮影などを楽しんでいるそうだ。

 この十数年は、夫婦で日本を度々訪れているが、その目的は変化してきている。最初は歴史的な興味に沿った観光だったが、近年は老後の住まいの選択として日本を知ることが目的となって、伊豆や箱根、そして東京都内をあちこち回っている。昨年6カ月の関東滞在中は積極的に高齢者向けの文化講座や各種イベントに参加した。歌が好きな幸子さんの目に留まったのは歌声喫茶だ。方々で開催されており、100人以上が参加した会もあった。そのひとつの会では、歌い出す前にしばらくグループで曲目について歓談する時間が設けられていた。「岡晴夫さんの歌った『憧れのハワイ航路』や服部良一さん作曲の『青い山脈』などの話をしているうちに、当時のことを思い出して心が温まってきましてね。うまい計らいだと感心しました」。聞けば、会を進行していたのは音楽療法の指導者とわかって納得。ちなみにこの会は1回500円だった。

 高齢者向け介護付き住宅の選択肢が多いことなどから、将来の日本暮らしも検討に入れての長期滞在だったが、「日本は日本のお付き合いがあって、すでに交友関係が確立している」ことを実感。またコミュニティの中で自分らしく生きることを大事にしたい幸子さんにとって、その地は住み慣れたバンクーバーとわかった。「ここで自分自身の生きがいをもっと広げていこう」、そうフォーカスが定まったのである。

作家の気質から異国を知る試み

 幸子さんが抱えていた大きなバッグにはテキストが入っていた。「小説からロシア人の気質を知ることができれば」と受講しているサイモンフレーザー大学でのロシア文学講座のテキストだった。学んでいる小説では、田舎を愛する作者の思いに共感を覚えた。そうして見出した接点は、マルチカルチャーのバンクーバーの人たちとつながり合うために役立っている。

過去から受け取る力

 幸子さんには、カナダ人である夫の母、祖母と暮らした日々があった。無我夢中で過ぎた時間の中に、苦労とともにうれしい思い出もたくさん詰まっている。幸子さんが目の行き届かなかったところを義理の祖母がこっそり掃除をしてくれていたこと、現役時代は看護師をしていたしっかり者の祖母が「こうでなければ」というこだわりのない自由な生き方を示してくれたこと、「あなたの顔を見るとハッピーになる」と言ってくれたこと。「夫の家族からそうした目に見えない優しさをいただきました」。その思い出は「現在ここにいなくても、ぬくもりを感じられる足跡」のように自分を支えてくれている。そしてこうした過去は、たとえこの先孤独になっても自分に力を与え続けてくれると思える。

『人生は芸術である』

 生きていれば当然思いがけないことに遭遇する。目の前のことを受け入れた後、どの道を進むかは「いい意味でとことん追い詰めて」考える。このとき幸子さんのベースには一つの思いがある。

 ゲーテの『人生の智慧』やトルストイの『人生論』などを貪り読んでいた20代の頃、とある本から「人生は芸術である」というフレーズに出逢った。その言葉から鮮烈な印象を受け、以来それが生き方の柱になった。物事の帰結を「きっとこうなるはず」と決めつけず、「芸術的な展開」が起こり得る無限の可能性を信じる。そしてその可能性を広げるべく、自分の世界を広げることに力を注ぐのである。

素敵と思うことが力になる

 欧州を夫婦で旅行中、モンテカルロの丘の上で自由にシャンソンを歌う人たちの姿が素敵に映った。「こちらで歌の仲間に入るには、2、3曲は持ち歌を」と、目下夫婦で歌える歌を仕込み中だ。仕事で現実の社会情勢や数字を緻密に見つめる一方で、「日々の楽しさを作っていくのは他ならぬ自分」と、カナダの空よりも広い心で大らかに羽ばたき続けている。

(取材 平野香利)

 

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