2019年8月1日 第31号
8月17日〜18日の2日間、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市のスティーブストンにある文化遺産の一部であり、ムラカミハウスに隣接するボートハウスで、リンダ・オオハマ氏が監督する「From the Inland Sea. ~The boy's dream~」という演劇が上演される。日本語の題名は「内海(うちうみ)から」。オオハマ氏は映画監督として活躍し、作品には日系1世の祖母の生涯を描いた「Obachan's Garden」や東日本大震災後の東北のドキュメンタリー「東北の新月」等がある。なぜ映画監督が演劇を行うこととなったのか、また、題名の意味や劇に込める思いについて彼女に話を聞いた。
ボートハウスで、演劇の打ち合わせをするリンダ・オオハマ氏(写真提供:Masa Ito)
<きっかけは昨秋の出来事>
2018年秋、オオハマ氏宅のポストにある書類が届いた。送り元はブリティッシュ・コロンビア州ビクトリア大学。何気なく封を開けてみると、その中身は1948年の5月に行われた、バード・コミッション*による政府聴聞会の記録であった。その原告には「オトキチ・ムラカミ」と記されており、オオハマ氏は息をのんだ。「オトキチ・ムラカミ」は彼女の祖父である。
ムラカミ氏は、17歳の時にカナダへ移住し、船大工や漁師として働いていた日系カナダ人1世である。第二次世界大戦中の1942年、居住していた家屋及びビジネスのあったウエストコースト沿岸100マイル保安区域ゾーンから、強制移動させられた2万1千人の日系人の1人であった。
多くの人々は収容所に連れていかれ、ムラカミ氏を含めた他の人々は遠隔地の砂糖大根農場等で農業労働に従事させられた。彼は戦後、解放され自由になったときに、ある所有物を取り戻そうと法廷でそれを立証しようとしたのだ。その記録を同大学の関係者で友人でもあるマイケル・アベが送ってくれたのだった。
*バード・コミッション(Bird commission)
日系カナダ人の資産及び所有物返還請求を取り扱うための、カナダ政府に指名された者で構成された委員会。カナダ政府は、強制移動させられた日系カナダ人の資産及び所有物が政府管理人の管轄下にあった期間の損害に対してのクレームを検討するバード・コミッションを、1947年に設立させた。バード・コミッションは、その聴聞手続きにおいて、それを要望する各個人に対し、資産の損失を証明する数々の証拠書類提出を要求した。その過程は非常に複雑で、多くの人々は聴聞の申請に必要な証明を揃えることができなかったが、ムラカミ氏は1948年に申請を認められ、原告としての参加が実現した。
<ムラカミ氏が政府から取り戻したかった“ある所有物”>
ムラカミ氏が砂糖大根農場から帰還してすぐに政府の聴聞会に出られる資格を申請したことは、家族の誰もが知らなかったという。彼が聴聞会に原告として出席したという事実は驚きであったが、その内容はさらに驚愕させられるものであった。ムラカミ氏が取り戻したかったある所有物、それは造船時に使用する建材や工具等であった。オオハマ氏は祖父の取り戻したかった物が車や宝石等の高価な物でなく、一見すると「小さな物」であることに驚いたと言う。聴聞関係の書類の内には、彼が政府管理人に宛てた自己の所有物である建材、工具、ねじ釘に至るその他諸々の安全保管を尋ねる手紙が多数含まれていた。強制移住させられた地で過ごした数年間、彼はそれらの安否を常に気遣っていたのだ。オオハマ氏は祖父がどれだけ船大工であることを誇りに思い、情熱を注いでいたのかを初めて知り、複雑な思いが込み上げてきたのだった。
<オオハマ氏の複雑な気持ち>
オオハマ氏が複雑な気持ちになったのは、子どもの頃知っていた祖父と聴聞会の書類で発見した本当の祖父が全く異なる人物であったからだ。同居こそしてはいなかったが、幼少期から祖父母は近所に住んでおり、しばしば会っていたという。いつも笑顔で優しい祖母とは反対に、祖父は非常に厳格で、一度たりともハグをしてくれたことも笑顔を見せてくれたこともなかった。会話もほとんどなく、発する言葉と言えば「ダメだ!」「馬鹿者!」等の短く、そして厳しい内容のものばかり。「冷たく空虚な心の持ち主」と思い、ただ祖父というだけの存在であった。そしてオオハマ氏が10代の頃祖父は亡くなったのであるが、それから昨年まで、祖父に対してはそのような印象しか持っていなかったのだ。オオハマ氏は、聴聞会の記録や祖父の政府管理人へ宛てた手紙に何度も目を通し、建材、工具等を取り戻そうと執拗に試みた祖父を知ることができた。そんな祖父を誇りに思うと同時に、彼が生きているうちに彼を理解できなかった自分自身に深い後悔と罪悪感を持たずにはいられなかった。
<ムラカミ氏と船大工>
ムラカミ氏は1886年に広島県で生まれた。幼い頃から船大工になることに憧れ、7歳から広島県因島で船大工見習いを始め、10年の厳しい修行を経験した。初めの3年間は、造船所の床掃除をすることしか許されず、4年でやっと道具の掃除を任され、初めてそれらに「触れられた」という。5年目で「使う」ことを認められ、それから約6年間、実践を通じて舟造りを学んだ。1903年、ムラカミ氏が17歳の時、カナダへ渡った。1910年に永住権を取得し、スティーブストンへ引っ越す。最初の妻ツネを出産時に亡くした後、1925年に アサヨ ・イマモト (オオハマ氏の祖母)を2度目の妻に迎えた彼は、1929年に海沿いにボートハウス(造船小屋)を建て、その隣の家(現・ムラカミハウス)に家族と共に引っ越した。この時、彼は43歳であった。7歳の頃、船大工になる道を選んだ彼にとって、ついにカナダで自分のボートハウスを持ちビジネスを創立させたことが、どれだけうれしく誇りだったかは計り知れない。
しかし、1941年12月、日本軍の真珠湾襲撃をきっかけにカナダは日本に宣戦布告、直ちに日系人への取り締まりを厳しくした。1942年には2万1千人の日系カナダ人がウエストコーストより強制退去、収容所及び遠隔の地に送られ、権限を剥奪された。その際、ムラカミ氏はボートハウス及び住居、所有物のことごとくをカナダ政府管理人に託していくことになる。住まいとボートハウスの鍵と共に、彼はボートハウス内に保管している、建材、工具、ねじ釘、パテ等の全ての所有物のリストを管理人に預けた。遠隔地での抑留の数年間、彼はそれらを無事に取り戻せるよう願っていた。
<祖父に今の気持ちを伝えたい>
「おじいちゃん、今初めておじいちゃんのことがわかったよ」というメッセージを祖父に伝えたいというオオハマ氏の願いがこの演劇を生んだ。本当の祖父を知るきっかけとなった聴聞会の記録書類をもとに、法廷で聴聞が行われた場面を中心に台本を作成した。
「From the Inland Sea. 〜The story of a boy's dream.〜(内海から)」という題名は、オトキチ・ムラカミの船大工としての情熱を持つ原点となった因島が浮かぶ「瀬戸内海」に由来するだけでなく、オオハマ氏の祖父への言葉では表せない感情が、心の中からあふれ伝えたいという気持ちが込められている。
また、上演されるのは8月17日、18日の2日間であるが、この時期を選んだことにも意味がある。8月中旬にあたるこの時期は、日本のお盆の時期である。日本のお盆の時期には、先祖の魂が故郷に帰ってくると言われており、オオハマ氏は、祖父の魂はボートハウスに帰って来るだろうと考えたのだ。映画にすればいつでもどこでも上映できるわけだが、今回においては、「お盆の時期に」「祖父のボートハウスで」「演劇」を上演することこそが、オオハマ氏にとってとても重要であった。
<様々な人々に支えられての実現>
オオハマ氏にとって演劇の作成は初めての試みであり、全てが難しかったと言う。台本の作成、俳優の決定、舞台の設定…。低予算の中でのこのプロジェクトの実現が可能になったのは、劇に携わるたくさんの人々、俳優、ミュージシャン、ステージクルー等の惜しみない協力があったからだと彼女は言う。オオハマ氏が関係者に協力の依頼を行った際、劇の背景、目的を伝えると皆が共感し、協力したいと言ってくれたそうだ。皆さんに信頼されているのですねとの私のコメントに、オオハマ氏は「それはわかりませんが、私はとても運が良いです。だけど運が良いということは責任が伴うということ。皆さんに、この運に対して二倍は返せるものがあるように応えたい」と話した。
<オオハマ氏がこの演劇で伝えたい事>
オオハマ氏はこの演劇を通じて伝えたいことが2つあると言う。「1つは、とにかく恐れず挑戦をしてほしい。結果がどうであれ、挑戦したという事実は決して消えない。それが誰かを励ますことにつながります。そしてもう1つは、人のことを簡単に決めつける前にその人のことをもっと知って欲しいということです。見た目やうわべだけの事実がその人のすべてではない。中身を知り、相手を理解すればその人から学べることがきっとあるのです」と話した。
play features: Jay Hirabayashi (Kokoro Dance), Takeo Yamashiro, Yasuko Takahashi, Masa Ito and many others. Supported by Vancouver Shinpo, City of Richmond, Britannia Heritage Shipyard Society, and Vancouver Tonari Gumi.
(取材 わしのえりか)
演劇が行われるボートハウス(写真提供:Linda Ohama)
オトキチ・ムラカミ(右)とアサヨ・イマモト(左)。 ボートハウス横の現・ムラカミハウスの前で(写真提供:Linda Ohama Collection)
演劇で上映されるスクリーンの一場面。少年時代のオトキチ・ムラカミをイメージし、瀬戸内海で撮影された(写真提供:Misaki Nagao)