日本語版を1998年に出版

本書の日本語版を書いたいきさつについて聞かせてください。

1970年代末から80年代にかけて、日系人のためのソーシャルサービス、そして日系人の補償問題に関係していたときに、戦後日本にずっと滞在している人がいることを知り、補償成立後、訪日して経験者に会う機会がありました。
補償の問題に触れた英語の本は何冊かありますが、1946年に『送還』された人びとについてはほとんど触れられていません。その人達の経験はカナダに滞在していた人よりも厳しいものがあったと考え、本にすることにしました。

在日カナダ人へのインタビューはどんな形で行われたのですか?
補償成立の直後から日本の在日カナダ人の会と連絡を取り、補償金の申請などについて情報を提供しました。翌1989年にはカナダ代表の一員として日本を訪問し大勢の人に会い、その後も連絡を保ち、インタビューする機会がありました。

会った印象はどんなものでしたか?

戦後日本の食料不足や住宅難、就職口は占領軍以外にはほとんどなく、10代、20代の若い人でも家族を支える苦労がありました。
1949年に日系人に対する収容政策が解消された後でも、カナダに帰国するのは外貨制限、スポンサーの必要などがあって容易ではありませんでした。

在日カナダ人へリドレス補償はあったのでしょうか? カナダ年金は?

1941年の大戦勃発の時点でカナダに在住していた人はリドレス受給の資格があり、1988年に日本に在住していてもカナダ在住の人と同様に申請、受給しています。しかし、追放され日本に引き続き在住している日系人の多くはカナダの年金受給の資格がなく、この件について在日カナダ人の会の代表と共に当時の担当大臣に規則の変更などを陳情しましたが、リドレスと年金の規則とは全く別物という反応で不成功でした。

日本語版出版後、どんな反応がありましたか?

1998年以降の反応については、日本の研究者が関心を持ったことです。しかしカナダの日系の研究者や一般の日系人の多くは英語版を望んでいました。

日本語版出版から英語版出版までに時間が経っていますね。

英語版の翻訳を考慮していたときに日系人の翻訳家のキャスリーン・メルケンさんと知り合い、翻訳を引き受けてもらいました。翻訳は1990年代の初めに出来ましたが、何軒かの出版社に連絡して断られました。その過程で内容の改訂も行い序文、結論部分はかなり日本語版とは違っています。
結局2年ほど前に日系人関係の本を出版したことがあり、本人も日系人に関する研究者である出版社の代表者に引き受けてもらいました。


英訳版出版記念の集い

5月19日の午後、日系センターのロビーにはたくさんのイスが並べられ、鹿毛氏の家族や友人がそれぞれ受け付けやオーディオ、写真撮影を手伝い、約80人以上がこの出版記念の集いに参加した。
司会のロレーン及川さんに紹介され、ビクトリア大学で日本史を教えるジョン・プライス教授、ロイ三木SFU名誉教授、元全カナダ日系人協会会長のグレース・エイコ・トムソン氏、BC ALPHA代表のテクラ・リット氏が祝辞や本件にまつわるエピソードを述べた。
UBCアジア研究所の柴田祐子氏は日本への送還を経験したマリエ勝野さん、アイリーン露木さん、ロイ上田さんを紹介。露木さんは日本へ送還される際、ライオンズゲート・ブリッジの下を船が通ったとき、哀しみでいっぱいになったと語った。12歳のとき父と兄と一緒に日本へ送還された上田さんも、当時まわりが大変なことになっているのを子どもながらに感じ、もう一生カナダに戻れないのではないかと不安になったと当時を振り返った。
日系人の翻訳家のキャスリーン・メルケンさんとの出会い、英訳版出版への過程について語った鹿毛氏は、英訳版出版を機に日本語版を読みたいという人が増えていると報告。出版社側に増刷について手配中と話している。

(取材 ルイーズ阿久沢)


鹿毛達雄(かげたつを)略歴

歴史家、翻訳家。1935年栃木県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院在学中にドイツ西部のチュービンゲン大学の留学。帰国後、明治学院大学法学部で政治外交史担当教授。1975年以来、家族と共にバンクーバーに滞在し、日系人のためのソーシャル・サービスに関係する傍ら、移住者の組織化や日系カナダ人のための補償の運動に参加。長らくバンクーバー日系市民協会人権委員会委員を務め、人権問題や日本の戦争責任等についてもしばしば発言している。

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