あきレストランというと、バンクーバーで最も古い日本食レストランのひとつとして有名ですが、創業はいつでしょうか。
1963年です。
確か、以前はチャイナタウンにありましたね。
パウエル・ストリートの旧日本人街にありました。創業当時は、戦時中に強制収容所に送られた日系人も、一部の人たちは、パウエル・ストリートに戻ってきていて、日本のお店も結構ありました。あきレストランの斜め向いで、「ふじ屋」の平居社長は別のビジネスをしていました。バンクーバー新報さんも近くにオフィスがあって、新報の社長もよく食べに来てくれましたよ。平居社長がふじ屋をオープンしたのはあきレストランがオープンして10年ぐらいしてからで、今のクラーク・ドライブではなくて、パウエル・ストリートでした。みんな若かったし、頑張っていました。
当時は、今のように日本料理の人気がなく、また理解もなかったのでしょうから、苦労されたのではないでしょうか?
苦労は色々ありましたが、忘れました。ただし、保健所のインスペクターとはよくやりあいましたね。日本料理を食べないし、知らないから、「寿司飯が冷めたい。もっと熱くしろ」って言うんですよ。
私はオープンして3年目ぐらいにお嫁に来ました。情にほだされたような形でやってきたし、レストランで働いた経験なんてありませんから、お茶を注ぐのにも慣れていない。緊張してぶるぶる震えて、大変でした。レストラン経営自体はずっと上り調子でした。毎日オープンしてから夜11時ぐらいまで、お客さんが途切れることがなかったですね。商社や領事館の方がよく利用してくれて、この部屋はどの会社ってそれぞれ決まっていてね。お客様はほとんどが日本人でした。
日本人のお客様が中心のレストランから、いつの間にか地元の人の間でも人気店になった?
開店して10年ほど経って、英語のメディアに紹介してもらったのがきっかけで、日本人以外のお客様が増えました。おかげで、毎日予約でいっぱいで、すごく忙しかったの。ある日、トルドーという名前で予約があったんだけど、満員だったのでお断りしたら、後で、トルドー元首相のことと知ってびっくり…なんてこともありました。まさか、カナダの首相だなんて思わないじゃない。その後、来てくださいましたけどね。
70年代から80年代にかけては、本当に良かったですね。日本も景気がよかったし、有名な方によく利用していただきましたよ。本田宗一郎や雪村いずみ、司葉子、美智子妃殿下のご両親なんかも来ていただきました。
パウエル・ストリートからサーロウ・ストリートに移ったのは?
14年前です。パウエル・ストリートのあたりの雰囲気が変わってきていて、閉めようかなんて話をしていたら、この場所にあったナニワヤというレストランが売りたいというのを聞きました。ダウンタウンの中心に移ってからは、学生さんなんかも利用してくれるようになったんですけどね。ビジネスマンの方たちも、オフィスから徒歩圏内なので、ランチによく来てくださいました。
今回の閉店は、テナントとして入居しているビルが取り壊しになると聞きました。
取り壊してハイライズになります。
最初、閉店と聞いたのでびっくりしたのですが、ダウンタウンで良い場所が見つかったら、またオープンするのでしょうか?
そのつもりです。常連のお客様をはじめ、たくさんの人たちが止めないでと言ってくださっています。バンクーバーに昔からあった、千代田や岡田スシ、壱番館などみんな閉店してしまいました。オープンして49年近く経って、お客様のお子さんが、そのお子さんを連れて来てくださっています。それを取り壊しのために閉店しなければならないのは、本当に残念です。たくさんの常連のお客様も「惜しい」と言ってくれています。
みんな良い方ばかり。感謝しています。「今までご苦労様でした」と電話をくださる人もたくさんいます。日本からも「お疲れ様」って、電話がきます。嬉しいです。
もう一度、オープンするまで、時間が開いてしまいますから、スタッフの方も大変ですね。
スタッフの一部は、これを機会にリタイアします。世代交代ですね。でもあきレストランの味の伝統は残していきます。主人は父親や夫としてはダメな人ですが、コツコツ仕事をします。魚の管理や野菜の下ごしらえ、出汁のとり方まで、ベーシックを守って、これまで変わらない味を支えてきました。自分の仕事に対する誠実な姿勢は、50年近く、変わりません。主人が築いた、この伝統は、新しいスタッフが入っても、維持していきます。
初代JALバンクーバー空港所長の今泉周治氏に「あき」の想い出を聞いた。
「JALバンクーバー線創設(1968年9月)当初の機内食としての日本食準備」
当時のバンクーバーでの日本食の人気は増し、需要もかなり伸びて来ていたようでした。当時はしかしながら自分の知る限りでは市内には3~4件の日本食屋があるだけだったように覚えています。
小生は1968年8月に新路線開設準備に本社から派遣され、約1カ月で機内食を準備するレストランを選抜し、メニュー等の打ち合わせと契約まで運ばなければなりませんでした。
当時のあきレストランは日本人街があったパウエル通りにあり、日系2世の武内秋雄(あきさん)氏がオーナーシェフであられました。ご主人は無口ながら言葉使いも丁寧に接して下さり、真面目なご性格で大変好印象を与えられたことを覚えています。
4年数カ月の業務上の交際期間のなかで、一度だけ当方にとって困った事が起こり、あきさんに指摘したことがありました。後からよくあきさんとの懐かしい会話で出て来る『茶蕎麦事件』です。
そもそも機内食のうち日本食はエコノミークラスにおいては洋食メニューの補助というか前菜として茶蕎麦セットが供されています。会社としては当時に日本食になれていない乗客のほんの口汚し程度のボリュームでありました。(今もそうですが)ファーストクラスでもオードブルのひとつほどの感覚でした。
そんな状況下ではありましたが、ある時たまたま茶蕎麦の卸し業者からの入荷が遅れてしまい、あきレストランとしては入荷があるまで普通の蕎麦を提供していこう判断。JALには事情の説明をしないまま、ある日機内食が普通のお蕎麦になってしまったのです。しかしながら当社としては外地とは言えメニューの内容の変更は極めて望ましくないことなので、早急に対処の方法を考えたいと厳重注意したわけです。
なんと数日で、問題の機内食の蕎麦は従来通り茶蕎麦が用意されたではありませんか。
驚いて聞いたところ、「我々レストランにも意地あるんで日本から航空便で茶蕎麦を取り寄せたんですよ」とあきさんは胸を張って答えてくれ、私は思わず立ち上がり「よくそこまでやって下さった」と強く握手したのを覚えています。
その後、JAL東京本社より機内食業者を関連会社へ変更せよとの打診があった折にもずいぶん「あき」の続投を申し出たものですが、時代の波には勝てず残念でした。
今でも開設当初で、旅客が少ない時代から我が社と苦労を共にして下さったあれこれを忘れずに思い出しています。
あきレストランは1368 W. Pender Streetに移転することが決まった。5月1日にオープンを予定している。
(取材 西川桂子)