記念碑除幕式
今にも雨が降りそうな9月18日の朝、オッペンハイマー公園には多くの人が集まり始めていた。記念碑の除幕式については、『バンクーバー・サン』紙やコミュニティ紙『バンクーバー・クリアー』がとりあげていた。
9時半に始まった除幕式には、元選手でデルタ在住のジム・フクイさん(95)、カムループス在住のケイ上西功一さん(89)や元選手の家族、関係者、在バンクーバー日本国総領事伊藤秀樹氏が列席し、100人以上の人たちが式典に臨んだ。
 スコーミッシュ族による幕開けの太鼓、NAVコーラス(国歌合唱団)による『オー・カナダ』に続き、連邦政府を代表してべバリー・オダ国際協力大臣、ハロルド・カルマン史跡・記念碑実行委員、バンクーバー市ケリー・ジャン副市長、バンクーバー市公園課セーラ・ブライス委員、歴史家でナショナル日系博物館のグレース・エイコ・トンプソン学芸員、上西さんらがスピーチした。

 

日系人に与えた勇気と誇り
連邦政府ピーター・ケント環境大臣の代理としてオタワから駆けつけたオダ氏は「母がパウエル街で育ち、叔父のケン・ツガは朝日軍の選手でした。子どもの頃から朝日軍の話を聞いて育ちました」と語り、朝日軍への称賛を日系人であることを通して示した。
 トンプソン氏が「当時、日系人には職業だけでなく、公共のレストランやプールへの出入り拒否などさまざまな差別がありました。そんな中で日系人に勇気と誇りを与えてくれたのが朝日軍でした」と強調すると、出席者の間から大きな拍手が沸いた。
上西さんは「朝日軍で残っているのは3人。トロントのミッキー前川さんが99歳、デルタのジム・フクイさんが95歳、89歳の私がベイビーです(笑)」と挨拶した。
 1922年にバンクーバーで生まれた上西さんは、両親の故郷広島で育ち、11歳のとき、父親の死を機に帰加。旅館を経営する母とパウエル街に住み、バンクーバー日本語学校に通った。朝日軍に憧れを抱いて野球を始め、仏教会の青年リーグ、日本人リーグを経て、17歳で朝日軍に入部。1939から2年間、内野手として活躍した。

 

祖父の写真を胸に
始終、祖父の写真を抱いてスピーチに聞き入っていた日系4世のロレーン・オイカワさん。母方の祖父のケンイチ・ドイさんはカンバーランドで野球をしていたが、朝日軍に引き抜かれピッチャーになったという。リン・トミタさんの祖父タイ(ケンイチ)・スガさんも朝日軍のピッチャーだった。「1923年から39年まで朝日軍にいました。今、ジム・フクイさんに祖父を知っているかと聞いたら、うなづいてくれました」とうれしそうに語った。
 また、ヨシミ・カリヤツマリさん(73)は、兄が強制疎開先のリルエットで上西さんとソフトボールをしたそうで、アボッツフォードからやってきたという。

 

第6回朝日軍記念 親善試合

式典後、11時からはナショナル日系博物館とカーネギー・コミュニティーセンターの主催で、第6回『朝日軍』記念・親善試合が開催された。参加希望者たちで結成された赤チーム、白チームの2つの『朝日』に加え、黄色いTシャツを着たコミュニティ・チームの計3チームがプレー。朝日軍で三塁手だった上西さんは現在もバドミントンやカーペット・ボーリングをするスポーツマン。現役顔負けのフォームで、第1球めを投球した。
サム・アライさん(36)は、朝日軍がブリティッシュ・コロンビア・スポーツ殿堂入りした2005年から朝日軍に興味を持ち始め、トロント在住のエルマー・モリシタさん(69)らと毎年この記念試合に出ているという。リリアン・アダチさんは80歳の父が9歳のとき、朝日軍の試合を観戦していたことから、朝日軍のホームグラウンドだったオッペンハイマー公園(旧パウエル球場)で野球をしてみたいと初めて参加。リリー・シンデさんとともに赤チームでプレーした。
 日本人の母親を持つ竜気(たつき)・テイラーくん(13)とジョセフ・孝ノ助・シンクレアくん(10)。ジョセフ君は1試合を終えると「楽しかった」とコメントを残し、所属チームの試合に出かけていった。
午後には晴れ間も見え、試合は雨に降られることもなく無事に終了。カムループスから妻のフローレンス直子さんを乗せて車を運転してきたという元気な上西さんは、娘のジョイスさん夫婦とともに、晴れやかな笑顔で球場を去った。


(取材 ルイーズ阿久沢)

 


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