2017年1月1日 第1号

バンクーバー新報紙上でエッセイ『老婆のひとりごと』を連載中の許澄子さん。香港、モントリオール、バンクーバーと移り住みながら、仕事と家庭とを両立させてきた。また、占いや超常現象などに強い関心を持ち、インド、スコットランド、日本など不思議な体験を求めて1人でも出かけていく行動力の持ち主でもある。そんな不思議体験だけでなく、日々の生活で考えたことなどを綴る「老婆」こと澄子さんに話を聞いた。

 

 

許澄子さん

 

航空会社でキャリアを積む

 日本で大学を卒業後、ある航空会社の地上職員として就職、羽田空港で働いていましたが、労働条件が合わず数カ月で辞めました。それから、香港の啓徳空港でジャーディン・エアウェイズ(現ジャーディン・アビエーション・サービス)という、航空会社の空港業務下請け専門会社に転職しました。ジャーディンは英国航空(BOAC)の子会社ですから、結果的にはBOACの「スペシャル・ハンドリング・レセプショニスト」という、特別なヘルプの必要な旅客手伝いが仕事となりました。ある時、英国人のおばあさんが遺骨を抱えて英国への帰国時に私がアサインされ、ご搭乗の手伝いをしました。後でその方から会社へ素晴らしい感謝状が届き、私もびっくりするほどWell Done Letter(良い仕事をしたと褒める書状)をもらいました。その方は偉い英国軍人の奥様だったらしく、お礼状は会社にとって重要な意味があったようです。おかげで給料も上がりました。そしてある時、ルフトハンザドイツ航空から転職の誘いを受けて、6カ月後に転職しました。ルフトハンザにはとてもいいトレーニングプログラムがあり、IATA(国際航空運送協会)で通用する資格を取ることができるのです。この時のオファーは私にはとてもうれしいことでした。何でも真面目に努力し、生きることは、他人の目の有無に関係なく自分の喜びともなり、細やかな幸せ感につながるみたいです。

 

カナダへ移住

 1970年代初め、私たち家族はカナダへ移住し、3年間モントリオールに滞在しました。私は2年間英語を勉強し、また、政府の奨学金を受けてフランス語学校へも通いました。3年の滞在の後、フランス語が身につかない私たち家族はバンクーバーに越してきました。私たちが滞在していたころ、モントリオールは「静かな革命」の真っ最中でした。良い経験が得られた3年間です。いずれ『老婆のひとりごと』に書いてみたいと思います。  バンクーバーに移って、最初は空港の機内食会社で毎日計算機と戦う会計業務を数年やりました。「B級」通訳とかいろいろパートタイムでも働きました。そして、40歳後半に桐島洋子先生との出会いがあり、良い意味での大きな影響を受けました。私は50歳を目前に、いま自分の仕事を始めなかったら一生何もできないと思い、「GLCプランニング」というイベント企画会社を始めました。当時、意気地のない私はどのくらい桐島洋子先生に励まされたことでしょうか。彼女からの励ましの手紙は今も大切にとってあります。

 事務所は東京麹町三番町、皇居のすぐ近くで、当時海部元総理の住まいの真隣で小さな所でした。最初は航空会社関係の人たちからのリクエストでカナダ特別旅行企画、教育関係(当時のキャピラノカレッジ)と交換留学というように仕事が増え、バンクーバーにも事務所を開きました。カナディアンロッキーのシャトー・レイクルイーズから声がかかり、アルバータ・ツーリズム、シャトー・レイクルイーズ・ホテル、バンフ・スプリングス・ホテルなどのスポンサーで、「世界氷の彫刻大会」をレイクルイーズで開催しました。しかし、あまりに膨大な仕事に対して収入は経費をカバーするだけの状態で、「全く商売にならない!」と1回だけで終わらせました。そのビジネスは、あまり記憶にないのですが、確か米国人に売却したかと思います。

 その後、ノースバーナビーにある、オーバー・リン・マンションを借りてシートン・カレッジという学校を開校しました。最初は女性学、特にフェミニストセラピーをSFU(サイモン・フレイザー大学)の先生が教えて、フェミニストセラピストの資格を取るための学校でした。そのSFUの先生は、以前より日本へ年数回行って教えていたのです。バーナビー市の規則で、歴史的な市の記念館は使用規則が厳しく、収容人数にも制限があります。この大きくて、美しいアールデコのステンドグラスがあるオーバー・リン・マンションは、わずか15人の学生を収容することしか許可されませんでした。収容人数を増やせず、結局、採算を合わせるために、夏は日本から高校生や短大生のESLやホームステイプログラムなどと合わせて開催しました。でも本当に楽しかったです。また、ホワイトロックのエリジン・パーク高校やイーストバンクーバーのテンプルトン高校の生徒を日本へ連れて行ったり、東日本大震災で被害のあった東松島近くの街、矢本町(現・東松島市)の企画する国際交流は数年間続けました。その企画に参加した子どもたちとの思い出がいろいろあります。ある時、石巻の子どもたちをバンクーバーの花火大会に連れて行きました。その帰りに浴衣を着た子どもたちの一人が「ホイさん、あのねぇ、石巻の花火大会はね、火の粉が肩にかかるくらい近くでね、花火の音も『どどーん』って聞こえるんだよ」と言うのです。「そうだったのねぇ。バンクーバーの花火の音は、はるか彼方で『ぼぼん』というだけねぇ」と慰めあったこともありました。懐かしい子どもたちはもうみんな40歳近い大人になっているのかしら。

 

不思議なことが大好き

―澄子さんは「アガスティアの葉」について『老婆のひとりごと』で紹介している。「3000年前に印度の聖人アガスティアが、将来自分を訪ねて来る世界中の人の運勢をヤシの葉に書き残したものである。」(弊紙2016年9月8日発行第37号より引用)

 1999年に母が亡くなり、その翌年夫が亡くなり、その1年後に私が脳卒中で倒れて、両手が麻痺してしまった。その数年間は大変でした。体内出血してお腹の中に新生児大の血の塊が2つもできたけど、開腹手術はしないというんです。大きいお腹のまま2年くらいずっと過ごして、死にたくなりましたね。それなら、死ぬ前に「アガスティアの予言」を聞きたいと思ってインドまで行ったんです。そこで、「あなたは70歳後半で何か書く」と言われたのですが、日本から来る人にはみんなそういってあげているのだろうと思ったのです。でも今、70歳後半でバンクーバー新報にエッセイを書いている…。「アレー!」という感じですね。

 書き始めて気づいたのは、人との会話、見ること、体験すること、すべてが、すーっと通り過ぎず、体の中で「ちょん」と止まって、感覚が研ぎ澄まされ、これを書いて誰かにシェアしてもらえる、そんな思いを感じるのです。でも実際は、読者がどう思うかより、本当は自分が言いたいことを好き勝手に書いているから、つまらないなと思う人もいるでしょうね。でもね、私がほんとに伝えたいことをその文中から探してくださる人もいて、コメントを頂くと嬉しいです。

 本当はこのバンクーバーで出会う、多くの本当に素敵な人たち一人ひとりを書いていきたいと思ったのです。特に私が長年所属している日系女性企業家協会(JWBA)の面々ですが、年齢に関係なく自分のお仕事を立派にやり、個性的で、頑張り屋で、人に優しく明るくて、私は学ぶことばかりなのです。

 『老婆のひとりごと』を書くのはすごく楽しく、書くまでの自分の気持ちがわくわくする。この年になってこういう機会が得られて本当にありがたい。書くことで人を励ますことも、逆に励まされることもあり、また、「楽しみに読んでいます」というコメントを頂くと本当に嬉しいです。そしてできれば、後期高齢者たちの昔話特集雑誌みたいなのがあったらどんなに面白いかなぁ、なんて考えて娘に話すと、「まったく、ママって!」と一笑に付されています。

一生燃焼、一生感動、一生不悟  「道」いちずに1本道、いちずに一ッ事、観音さまに助けられ、 仏さまに守られて、曲がりなりにも1本道、迷いながらも一ッ事

相田みつを

 

(取材 大島 多紀子)

 

 

2014年、作家の桐島洋子さん(右)と一緒にフロリダの キーウエストを訪れた(写真提供 許澄子さん)

 

 

ノースバーナビーにある歴史的建造物、オーバー・リン・マンション 澄子さんはここでシートンカレッジを運営していた

 

 

JWBAのメンバーと共に。前・在バンクーバー日本国総領事岡田誠司・寧子ご夫妻の送別会にて(写真提供 許澄子さん)

 

 

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