―10周年おめでとうございます。連載120回を超えましたね!
何と言っても読者の方からの「読んでいますよ」という声が励みです。100回でやめようと思ったこともありましたけど、自分の勉強のためにもできる限り続けたいですね。そうそう、先日の号で「お昼ご飯」とは言うけど、朝ご飯、夜ご飯には「お」は付けないと書いたら、「先生、お夜食とは言いますよ」と読者の方から意見をいただきましてね。こういうやり取りがうれしいですよ。


―コラムのネタが見つからなくて困ったことはないですか?
あまりないですね。生徒さんからの質問がたくさんあるわけですよ。外国人の日本語学習者や日本語教師養成講座の生徒たち、それと木曜会の人たちやJETプログラムで日本に行ってきた人たちからの質問ももとになっています。このカナダ人たちは上級者で、「三角い」はこういう人たちからの質問です。SFUでビジネス会話を教えた時のこともネタになっていますね。
そう言えば、ウォーターフロントに「スチームワークス」ってお店があるでしょ?そこに日本語上級者の連中とビールを飲みに行こうということになりましてね。一人が言ったんですよ。「先生、あそこに行けば、新鮮なビールが飲めますよ」って。それで「ちょっと待てよ、おい、ビールに新鮮なんて付けちゃだめじゃないか」って怒ったんですよ。そしたらそいつが萎れちゃってね。連中はその言葉を言ったら私が怒るか怒らないかに賭けていたんですよ。「先生、この店ではビールを造っているんですけど、それでも『新鮮なビール』はだめですか?」と詰め寄られちゃった。そういうたぐいが上級者の質問。


―全部実話なんですね。
時々作っているんじゃないかって言われることもありますけど、全部事実、フィクションはなしです。ところで平野さんは、大きい車、大きな車、どう区別して言っていますか?


― えー…トラックなど、もともと大型の車を大きい車、普通車で大きめだったら大きな車でしょうか…。あっ、怒られそう…。
じゃあ、車でなく「出会い」だったらどうです?「小さい出会い」と「小さな出会い」。わかりますよね。「~な」の方だと。「大きな車に乗ってみたいな」と自分の気持ちを言おうとすると「大きな」になる。車を直に見て言うのだったら、「大きい車」「大きな車」に違いはない。外から見て「大きい車」に乗り込んで内側から見て「わー大きいですね」と心で感じたら「大きな車ですね」と言うでしょう。
『千の風になって』という歌がありますよね。「あの大きな空を吹きわたっています」は「大きな」。これが「大きい」では感じが出ない。


― なるほど。ロマンが含まれている感じですね。
そうそう。


― ところで矢野先生は「言葉は変わっていいんだ」と普段から語っていますよね。
たとえば、会話は「会って」「話す」だよね。これは電話ができて変わったんじゃないかな。「そちらに行くから待ってて」。電話がない時代には、こんなのあり得ない。叫び声になっちゃう。それに携帯電話のない時代に「家出た時に電話するから」「電車に乗ったら電話するよ」はない。生まれた時から携帯電話のある人たちの言葉は、どんどん変わって当たり前。
昔から言葉はどんどん作られていて「バンカラ」なんかは、明治時代に野蛮のバンとハイカラのカラをくっつけてできた言葉だしね。
「へちま」はもともと「糸瓜」と言われていたけど、「い」は弱い音だから抜けちゃったんだろうね。それで「とうり」となって、「とうりの『と』って何なんだよ」となって、いろはで「と」は「へ」と「ち」の間だから、「へちま」となったんだね。


―そのように言葉を楽しむ人って、人生全般を楽しんでいる感じがします。先生は人を楽しませるのが得意ですよね。子供の頃から今のようだったのか興味があります。両親からはどんな子供と見られていたようですか?
私は小学4年生の時に母を病気で亡くしましてね。あまり何か言われた覚えがないですね。私は兄が二人、姉が二人で五人兄弟の末っ子。姉が親代わりに世話をしてくれたんです。


―きっとみんなにかわいがられたんでしょうね。「修ちゃん」とか呼ばれて。
そう呼ばれてましたね。小さい頃は野球少年ですよ。川上選手の時代ですからね。


―大学ではサークル活動を熱心にするほうでしたか?
いやいや、マージャンばっかり。それも役に立ちましたよ。仕事で。


―サラリーマン時代は接待も多かったんでしょうね。
ずっと営業をしていましたからね。


―もともとたくさん人と接する仕事だったんですね。営業というと、先方が話を聞いてくれるだろうかと不安や緊張を感じるのが普通と思うのですが、その辺り、どんな気持ちで臨んでいたんですか?
私が売り込んでいたのは、合成樹脂の原料。そんなのはどこのものだって同じ。だから、「あいつから買う」って思ってくれるよう、気に入られたいというのが一番だったですね。だいたい社長さんが相手だったから、話が合わせられるよう、何でも広く浅く知っておいて、話題を豊富にするようにしていましたよ。後は聞き上手になることも仕事で叩きこまれていきましたし。


―ひじょうに納得です。ところで先生を支えてきた座右の銘はありますか?
それは「一期一会」。バンクーバーに移住したのは、横浜のピザ屋で偶然カナダ人と知り合ったのがきっかけ。これは大きいですよ。一期一会と言えば、ひとつ話がありましてね。弁護士事務所に勤める日系二世の女性から「敬語の使い方を教えてほしい」と頼まれた時のことですよ。その人は日本語の上手な人なんですけどね。日本に行って仕事関係の講習をするというので、「じゃあ、これを言ったらいいよ」って教えたのが「一期一会」のジョーク。
その人は日本のビジネスマンへの挨拶の席で言ったそうですよ。「…ここでの出会いを大切にしたいと思っています。ところで皆さんは『一期一会』を英語で何と言うかご存知ですか?」と切り出して、反応を見てから「ストロベリーワンピクチャー」と言った。大いに受けたみたいですね。


―(笑)。英語の話者が語るとなおさら面白いですね!その女性も、きっと喜んで先生に報告してくれたんでしょうね。両親に報告するみたいに。先生は「バンクーバーのお父さん」と思っている人たちがたくさんいますからね。先生は、若い女性たちから「お父さん」と思われているのをどんな風に感じていますか?
照れくさいは照れくさい。でもちょっと残念。彼氏と思われたいね。でもとってもうれしいですよ。

 

矢野修三さん プロフィール
東京育ち。22年間のサラリーマン生活を経て、父との同居を機に日本語教師に転身。横浜で出会ったカナダ人家族との親交を深めたことから、カナダの魅力に惹かれて1994年に起業移民として移住。設立した学校の正式名は「YANO KSJ Academy」。Kは矢野夫人の啓子さん、Sは修三さん自身、Jは息子の潤一郎さんの名前の頭文字で、これは日本語学校の恩師から「学校に家族の名前を入れて、カナダでがんばるように」と激励を受けたのがその理由。日本語指導の仕事だけでなく、ICAS日本語放送の理事を長く務めた経験に、早稲田出身者の稲門会バンクーバー支部の世話役など、日系コミュニティでの活動にも精力的。
矢野アカデミーのウェブサイトhttp://www.yano.bc.ca
(取材 平野香利)

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