2019年3月7日 第10号
シンガーソングライターとして数々のヒット曲を持つ大江千里さんが、ニューヨークを拠点にプロのジャズピアニストとして活動を始めて約10年になる。今回、演奏のために訪れたワシントン州シアトルで「行ってみたい」と希望したのが、ここバンクーバーだった。日帰りで訪れた当地で、本紙独占インタビューに応じてくれた。
ニューヨーク在住の大江千里さん(撮影:Manto Artworks)
47歳で人生をリセット
1983年にシンガーソングライターとしてデビューし『十人十色』『あいたい』『格好悪いふられ方』『ありがとう』など数々のシングル曲をヒットさせた大江千里さん。作詞・作曲・編曲家としても活躍していたが、2007年末、ニューヨークでジャズを学ぶため、日本国内での音楽活動を長期休業すると発表した。
「ジャズは15歳のときから聴いていて勉強し始めたのだけど、結局シンガーソングライターのチャンスが先に来て全力でプロになって、そのまま27年という月日が流れていました。これが天職だって思うくらいシンガーソングライターの仕事が好きだしそのパフォーマンスが大好きでしたが、40代で“命には限りがある”という経験を目の当たりにして一回きりの人生にやり残しをしたくないと思ったとき、やっぱり心の中にジャズがあって、47歳のとき決心してニューヨークに引っ越しました」
音大ジャズピアノ科に入学
2008年の1月10日にニューヨークに渡り「The New School for Jazz and Contemporary Music」という音大のジャズピアノ科に入学した。
「英語は最初ぜんぜん意味がわからなくて、授業が終わってから先生にこの意味は何だって聞きながら、気がついたら次の授業になっていて“ソーリー”とか(笑)」。
クラシックピアノは3歳から習っていたが、日本で習うのはヨーロッパからきた記号の言葉で、ジャズはアメリカの表現なので、音楽そのものを英語の表現で一個一個覚えていった。
「それまで日本では送り迎えがあって、ピアノのコンディションを整えてくれる人がいて、僕はそこに行ってピアノを弾きながら歌うというシチュエーションでしたが、それとまったく違い、音の狂った学校のピアノを、20歳くらいの生徒と3分の1ずつ時間をもらって弾くという生活が始まりました。学校に行ってるのに“いい先生いますか、チューターはいますか(笑)?”みたいなことを周りに聞くけれど誰も教えてくれず、不安で不安で、なかなかジャズの世界に入れない。自分が学びたいことがどうやったら身につくのか、どうやったらジャズってできるようになるのかを探ることが、1年半以上続きました」
腕を壊してわかったこと
20歳の生徒たちに張り合って18単位までマックスで取りながら、体は48歳に向かっていた。結果、腕を壊して3カ月ほどピアノが弾けなくなった。「高い跳び箱を若いころのようにぽこぽこ飛べないし、復習の時間を増やして一歩ずつ自分のスピードでやっていくしかないんだって悟るのに、怪我するまでわからなかったです」
ピアノを弾けない間、まわりの同級生たちの音を聴く機会が多くなった。そのとき、ジャズが自分に向かってくる。それを受け入れて、人が弾くのを注意深く聴いて心に何かを満たしていくということを覚えた。
「そうしたらジャズっていうのは(指を鳴らし)ワカリブ・ルビリブ・ラバリバって言ったら、ラバリブ・ラバラバって、お互いにキャッチボールするような音楽だと、自分が休んで悔しい思いをしたときに気がついて。せっかく47歳でニューヨークという町にそれまでのキャリアを捨てて学生として住んでいるのだから、ジャズだけじゃなくて、ニューヨークのダウンタウンで今歩いているこのワン・ブロックを、もっと楽しまないと損だっていうような気持ちになれたのです」
自分の心が開いたとき、学部の違うインド系の人と友達になって舞踊のイベントに呼んでもらうなど、一気にいろいろなつながりが見えてきた。
ジャズ科2年目を突破
2年生最後の試験は、すべてのジャズのジャンル、バラード、三拍子、ボサノバ、ブルース、リズムチェンジなどの中から10曲ずつ候補を出して、先生が選んだものをアレンジしてその場でプロのミュージシャンとセッションするというものだった。試験に受かるとビッグバンドのアレンジのクラスや、チャーリー・パーカーによる上級クラスを取れるようになる。
「それに合格してから自分の中で少し自信ができて、アメリカの社会に対してもそうですし、何回りも年下の友達の輪にも心を割って中に入っていけるようになったんです。大学には4年半も長くいた分、エレベーターの前のソファに座って学校の主みたいな顔して(笑)最初のおどおどした自分ではなくなって、先生やいろんな国の友達と交わることができて、ものすごく貴重な体験でしたね」
ジャズピアニストとしてデビュー
2012年5月に学校を卒業し、7月31日にはジャズピアニストとしてのデビューアルバム『Boys Mature Slow』を世界で発売。アメリカ各地やヨーロッパでジャズピアニストとしての活動を始めた。
「Senri Oeっていっても発音できないから、まずはヘンリーって言ってHをSにしてもらって。始めはセッションが始まると汗が染みるくらいに超緊張しましたけど、ようやく最近、こんな楽しい音楽がそこに待っているのだからというような、やわらかい気持ちで演奏できるようになりました」
お客さんは日系人、これまでの経歴に興味を持ってくれるアメリカ人、まったくジャズ・アーティストとしての自分を聴きに来る人などさまざま。
ヒット曲をセルフカバー
2018年、アルバム『Boys & Girls』を発表した。
「『Boys & Girls』は大学のときに作った歌で“10年経って出会ったその時もラストは君と”みたいな詩の曲で、10年どころか35年経った今でもジャズの現場で鍵盤で歌ってて、お客さんに聴いてほしいという思いはまったく変わらないわけです。あのころ自分が歌詞に描いた印象的な、あの時代を象徴するような言葉を新しいジャズのアルバムタイトルにしようってことでできました」
「『格好悪いふられ方』っていう曲があるんですけど、イントロが流れてくるとみんながわっと盛り上がるような曲なんです。それをジャズにアレンジするのに、原作者の大江千里とジャズのSenri Oeが衝突して何カ月もアレンジを試行錯誤していたことがあったんです。そのとき、ジャズにするからってわざわざ難解に変える必要はなくて、あの竹で割ったような多くの人の心に響くキャッチーさをそのまま今の気持ちでやってみたら、という話を共同プロデューサーにされて“あっ、ジャズジャズって気張らなくていいんだ”って思えたんです。ジャズをやっている今の自分がドアを開けて、あのとき全身全霊でやってたポップスにふーっと自然に「再会できた」ときに、こんなレアな体験をできるのはなかなかないのだから、楽しんで譜面などにせずに気楽にやってみようって。そのままのノリで沸き立つ気持ちをテープに入れたら、すーっとできちゃったんです。音楽が交わる瞬間というか、あまりひねったことをせず、その気持ちのままって大切なんですね」
ある日のバンクーバー。雪の多かった2月が終わり、冷たい風の中、澄み切った青空が広がっていた。「ビルの窓に山が映りこんで、すごいきれいですね。ひとめぼれってあると思うんですけど、また戻ってきたい町だと思いました」
めがねの奥のお茶目な瞳が、バンクーバーにラブコールを送った。
大江千里(おおえ せんり):1983年にシンガーソングライターとしてデビューし、2007年末までに45枚のシングルと18枚のオリジナルアルバムを発表。2007年12月、日本国内での音楽活動を長期休業すると発表し、2008年1月、47歳のとき東京からNYへジャズ留学する。2012年5月、ニューヨークのジャズの学校「The New School for Jazz and Contemporary Music」を卒業。7月31日にジャズピアニストとしてのデビューアルバム 『Boys Mature Slow』 を世界で発売。これを機に新たな個人レーベル「PND Records」を立ち上げる。2018年、アルバム『Boys & Girls』で、かつてのヒット曲をピアノ・ソロでセルフカバーした。ニューヨーク在住。www.peaceneverdie.com/
(取材 ルイーズ阿久沢)
ニューヨークのライブで。左からSenri Oe、Sheila Jordan 、Jim Robertson。ボーカルのシーラ・ジョーダンは管楽器のソロを声で表現するような独特の世界観の持ち主のジャズボーカリストで、4枚目のアルバム『Answer July』は彼女を主役にして製作された。ジム・ロバートソンはその時のベーシスト(写真提供:Senri Oe)
NYC53丁目にあるTOMI JAZZでの一コマ(写真提供:Senri Oe)
バンクーバーでの短い滞在時間の合間に本紙独占インタビューに応えてくれた(撮影:Manto Artworks)
キャッチーな言葉がぽんぽん出てくる(撮影:Manto Artworks)
アルバム『Boys & Girls』のレコーデイングの合間の愛犬ピースとのショット
大江千里時代のヒット曲をセルフカバー。2曲書き下ろしも入ったアルバム『Boys & Girls』