世界にただひとつの流儀。
少林寺拳法には「流派」というものがない。1947年に宗道臣(そうどうしん)氏が日本で創始した時の志が揺れることなく65年間の歴史を刻んできた。
現在の会長、宗由貴(そうゆき)氏が受け継いだ後も、その志は変わらない。「根本理念は“人づくりの行”」…「特に子どもたちに伝えていることは“ありがとう”という感謝の気持ちを真剣に伝え、行動する。例えば、話をする時も相手の目をしっかり見つめる、礼儀作法をきちんとおぼえる、といったことを、世界各地にいる指導者に伝えています」と語る宗会長の目は真剣そのもの。会場での「子ども拳士」たちの様子を見れば、会長の思いは十分に伝わっていると確信できる。
父兄にも聞いてみた。「うちの娘は、10歳ですが何事にも積極的になりました。行儀良くなった、と思います」、「日本人の優れた精神を“まねている”と思います」「日本の国以外のところで、子どもに日本的しつけをするのは親でも難しいので、助かっています、というのがホンネです」など、行儀や、しつけの徹底は、会場へ出入りする際や、試合の初めと終わりに交わす、かわいい手と手を合わせる合掌の挨拶、狭い場所ですれ違う時、さりげなくゆずりあう、これらの愛おしい姿を見れば父兄の気持ちにもおおいに共感できる。
独自の教育システムが国境を越えて。
入門の動機は、十中八九、「単純に強くなりたい」というものではないだろうか。もちろん、少林寺拳法独自に生み出された技法を鍛錬することで、その期待には応えてくれるのだろう。しかし、現実の教えの多くは精神の在りようが説かれる。昇段試験でも、技術と同時に学科試験がある。「何のために、どんな人間になりたいのか、人のために何をするか・・・」を徹底追及する“人づくりの行”という独自の教育システムが貫かれている。
一方、こうした精神性の在りように民族を超えた普遍性があるのか、とも思うが、国境を越えて理解され、定着している現実が何より雄弁に物語っている。
この大会に来賓として招かれていた在バンクーバー日本国総領事伊藤秀樹氏も挨拶のなかで「創立者、宗道臣の志に共鳴する人々が世界に広がり、ここ北アメリカでも日本文化の理解を深めることになっている」と述べていた。
美しい。これはアートだ。
成人の試合になると、雰囲気はピーンと張り詰めた緊張状態になる。鋭い気合、蹴りや突きで発する防具の強烈な音、スパーリングの試合ともなると素人目には恐怖感さえおぼえる。
さらに、ファイナリストの演武ともなれば、すべては瞬時の技だろうが、連続する動きは流麗。感動的でさえある。
(取材 笹川守)