2019年10月31日 第44号

第60回海外日系人大会(海外日系人協会主催・外務省など後援)が10月1日から3日まで、東京の憲政記念会館とJICA市ヶ谷ビルで行われ、カナダからの8名を含む19カ国191名の日系人が参加し、「令和の日本と国際化の架け橋・日系社会」をテーマに議論を交わし交流を深めた。

 

10月1日の記念式典でご挨拶される天皇陛下(写真:斉藤光一)

 

 同大会は国際交流と各国での対日理解促進を目的に行われているもので、講演とシンポジウムからなり、世界の日系人ネットワークの中心的行事となっている。今大会では「日系アイデンティティを活かして多文化共生に貢献する」ことが宣言された。

 1日は天皇皇后両陛下のご臨席のもと記念式典が行われた。飯泉嘉門海外日系人協会会長が「多文化共生社会という日本の内なる国際化の実現には日系人の経験が欠かせず、連携・協力を考える機会としたい」と大会の抱負を述べた。

 天皇陛下は「私自身、ブラジルやアメリカを訪れたときに、日系人の方々の活躍の様を知り、現地社会でその活動が高く評価されていることに感銘を受けた。日系の人々が居住国と我が国との大事な架け橋であることを心強く感じている」と述べられた。つづけて在日日系人について「就業のために来日された二、三世を中心とした日系人の皆さんのこの30年の経験が、今後さまざまな文化を受け入れながら発展して行こうとする日本社会の貴重な参考になる」と労いの言葉を述べられた。

 過去59回を振り返るビデオ上映も行われ、参加各国からのビデオメッセージも届けられた。

 また、アンジェロ・イシ武蔵大学教授が「在日日系30年の歩みと日本の多文化共生」をテーマに基調講演を行った。

 記念式典に続いて行われた歓迎交流会では田中克之海外日系人協会理事長が「在日日系人はブラジル、北米に次ぐ三番目に巨大な日系コミュニティー。多文化共生のために活躍してきた経験を参考にしたい」との考えを披露し、この大会が実りあるものになるようにと述べた。

 2日は、国際シンポジウムとして、3つのパネルディスカッションと各種報告が行われた。

 そのうち、特別セッションでは堀坂浩太郎同協会常務理事がモデレーターとなり、「在日日系30年の経験―日本社会の内なる国際化を見据えて」として、北脇保之元浜松市長、長岡秀人出雲市長らからの報告をまとめ、日系人定住化による問題が大都市を飛ばして、地方自治体とその社会に直接影響を与えてきた様子を確認した。

 また「日系資料館の連携を考える」プログラムではカナダからシェリー・カジワラさんがカナダ日系文化センターの現状を報告した。

 夕方には外務大臣主催歓迎レセプションが行われた。茂木敏充外務大臣が「日本ではドラマで北米の日系人のご苦労が放映された」と日本での関心に触れ、「世界各国からお越しの皆さんようこそいらっしゃいました」と歓迎の言葉を述べた。日系人代表の挨拶に立ったツチノ・フォレスターさん(米国)は「最初は戦争花嫁と呼ばれた自分たちであったが、同じような境遇の人々とネットワークを広げ、呼称を日系国際結婚友の会とした。夫だけを頼りに新天地で子を生み、育て、暮らし、差別のある場所で暮らしてきた。いつしか醤油と寿司の味をアメリカに広めてきた草の根大使となった。そのことを誇りに思う」と述べると、会場から拍手が沸き起こった。

 3日は「令和新時代と日系社会」をテーマに各国の日系人が5分間スピーチを行った。同じく、カナダから参加した、サンディ・チャンさんは「若い世代は自身のアイデンティティを前世代よりも、よりグローバルな文脈の中に置き、トランスナショナルなものと感じている。また日系ディアスポラから得た経験は日本人だけのものではなく世界の誰にも当てはまる普遍的なものとして捉えることができる」と主張した。同じくカナダの板垣仁さんは鮮魚やコーヒーを例に挙げ、新しい日本との関わりかたがビジネス現場でも芽生えていることを知らせた。

 午後は衆参両議員議長主催昼食会が行われた。挨拶に立った大島理森衆議院議長が「居住国の良き理解者として、また日本文化の発信者として力添えをいただきたい」と挨拶し、山東昭子参議院議長が乾杯の発声を行った。

 バンクーバーから参加の五明明子さんは「雅子皇后のお元気そうなお姿も拝見でき、良いときに参加できた。カナダからの参加は少数ながら、式典で国旗を広げる機会があり、他国からの参加者とも一体感を感じた」と話した。また在日日系人というテーマについて「実態を知ることになった。カナダではあまり問題とすることがない」と語った。また「繰り返し参加すると、お互いに顔を覚えて、お互いの国をより親近感をもって感じる」と大会の意義を語った。

 

基調講演レポート

在日日系人は人材の宝庫、 日系人の経験を多文化共生のモデルに

 1日、アンジェロ・イシ武蔵大学教授が「在日日系30年の歩みと日本の多文化共生」をテーマに基調講演を行った。

 イシ教授はブラジル・サンパウロ出身で90年に日本留学をして以来、自身の日本滞在が「在日ブラジル人一世」の生活であると定義づけている。教授は日本における還流日本人とその子弟の移動と定住の過程について、日系ブラジル人を例に4つの時代区分に分けて説明した。

 1・日本の成長とともに移住者の中から、日本で収入を得るために来日するものが散見されるが、90年代に至るまでに「出稼ぎ」は一般的になっていた。

 2・90年代から「出稼ぎ」が「デカセギ」となった。これは商店、レストラン、送金サービス、ポルトガル語新聞など、二世、三世を含む日系人が日本で暮らす際の、サービス産業が成長していた時代といえる。日本の労働力不足を補う存在として重宝された日系人は、滞在期間を長期化させた。

 3・2008年のリーマンショックで工場労働者の雇い止めが発生すると、多くの日系人が帰国を迫られることとなった。2011年には東日本大震災が発生、生活への不安とショックを与えた。一方この時期を通じてなおも滞在するものは「デカセギ」から「在日日系人」として定住の道を歩むことになった。また2008年に至るまでは日本経済が右肩上がりの成長を見せていた時期であったが、それ以降はデフレと低成長の時代へと突入する。

 4・2010年以降の時代では定住化傾向は顕著となった。日系人は地方都市で暮らす労働者であり、納税者、そして消費者となった。日本社会にとって、その存在は多文化共生社会の構成員となった。生活の場として日本を選んだ「在日日系人」は、同時にこの頃から自分たちが世界に散らばるブラジル移民と自己認識し、「在外ブラジル人」のアイデンティティを持つことになった。北米のブラジル移民と共同でビジネスカンファレンスなどを行う例が挙げられる。

 イシ教授は依然として労働力の調整弁として日系人が弱い立場におかれていることには変わりがなく、不就学など、子弟の教育には問題が尽きないことも指摘しつつ、「ユーチューバーとして日本の魅力を発信する者もいるように、日系人は日本文化の架け橋となる人材の宝庫であり、日本が多文化共生を謳うのならば、この30年の経験を活かしてほしい」と締めくくった。

(取材 仲島カルロス)

 

10月1日の記念式典にご臨席の天皇皇后両陛下(写真:仲島カルロス)

 

10月3日 海外日系人の主張でスピーチする板垣仁さん(写真:仲島カルロス)

 

10月2日 「日系資料館の連携を考える―レガシーを共有するために」で講演したシェリー・カジワラさん(写真:仲島カルロス)

 

10月1日の記念式典でビデオでメッセージを伝える大河内南穂子さん(写真:斉藤光一)

 

10月2日 外務大臣主催歓迎レセプション(左からツチノ・フォレスター国際結婚友の会会長、田中克之海外日系人協会理事長、茂木敏充外務大臣)(写真:仲島カルロス)

 

10月3日 衆参両議院議長主催昼食会で挨拶した大島理森衆議院議長(写真:仲島カルロス)

 

10月2日 外務大臣主催歓迎レセプションで挨拶する茂木敏充外務大臣(写真:仲島カルロス)

 

10月2日 外務大臣主催歓迎レセプション カナダからの参加者(写真:仲島カルロス)

 

10月1日 記念式典会場でカナダ国旗をかざしてアピールするバンクーバーからの参加者(写真:仲島カルロス)

 

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