2018年10月18日 第42号

ブリティッシュ・コロンビア州・バーナビー市の日系文化センター・博物館で10月6日、『第8回・日系プレース・コミュニティアワード授賞式とファンドレイジング・ディナー』が行われ、日系カナダ人のリドレス(戦後補償)合意成立30周年を記念して、日系カナダ人補償戦略委員会の中から6名が受賞した。

この日の受賞者の一人で、全カナダ日系人協会(NAJC)会長としてリドレス運動を推進、指導したアート・ミキ博士の基調講演が行われ、230人の出席者は熱心に耳を傾けた。

ミキ博士は講演で、リドレスが合意に至った30年前を振り返り、時にはユーモアあふれるエピソードにも触れ会場を和ませた。

 

講演中のアート・ミキ博士

 

個人レベルでの補償の重要性

 ここバンクーバーで日系カナダ人戦後補償成立30周年を祝うことができることは、大変喜ばしいことである。今一度、補償運動が成功に至った当時を振り返るのによい機会でもあると思う。

 補償運動が困難を極めた時期に、私の目となり、耳となってくれた補償委員会のメンバーをこの場を借りて称えたい。

 政府関係者がNAJCの分裂を意図して働きかけてきたときには、コミュニティ内で衝突もあった。そんな時にも委員会のメンバーは忠誠を忘れずに、ひとつの大きな目標に心を集中させた。政府からの一方的な申し出を受け入れようとする日系カナダ人コミュニティもあった。

 真の補償とは何かを常に忘れずにいた日系二世のハロルド・ヒロセ氏やロジャー・オバタ氏、そして個人レベルでの補償の重要性を強調したゴードン・ヒラバヤシ氏の洞察力に感謝する。

 

交渉による解決を

 1984年から1986年にかけて、二人の多文化担当大臣との会合が不成功に終わり、1987年7月にはデビッド・クロンビー大臣から13億ドルのコミュニティ補償金で交渉を打ち切る(これを受け取るか止めるかの選択しかない)と言い渡された。しかしながら、私たちはこの申し出を受け入れなかった。

 補償委員会は運動の進展の無さに挫折を感じ、戦略が再検討された。今度はリドレスをカナダ人の人権問題として、人権問題に関わる人々からのより広いサポートが得られるようにした。

 日系カナダ人補償組合は、1987年にバンクーバーのトム・ビーガー氏により設立された。NAJCは、カナダ人や各種団体を広く巻き込もうと計画を練り直し、デビッド・ムラタ氏を採用した。そして教会、民族・人権保護の団体やカナダ人の作家、政治家、教授からの支持も得ていった。また、同組合は個人や団体に、『交渉による解決』を支持するよう依頼した。これは大変重要で、NAJCと政府が同意する解決策であるならば、多数の支持を得られた。これは野党の場合にも当てはまる。

 ある政治家は、個人補償の援助を依頼されても応えられないと言った。納税金が関わる問題を支持する立場に立つことは、政党にとっては自殺行為に等しいのだ。

 

カナダ人人権問題としてのリドレス

 日系以外のカナダ人が補償運動に関わることにより、日系人の補償運動はカナダ人の人権問題訴訟の先駆けとなった。1988年4月14日、日系人収容所犠牲者の大多数がパーラメントヒルでデモ集会を決行した。デモ行進し、デイビッド・スズキ氏をも含む支持者等がウエストブロックで演説を行った。この集会には多文化担当大臣に任命されたホン・ジェリー・ウェイナー氏の参加があり、彼はこの集会で大変心を動かされた。それから間もなくして政府から、再び話し合いたいとの連絡を受けた。これが8月終わりのモントリオールでの会合へと繋がり、ついには、希少な個人補償の同意に漕ぎつけた。私たちは歓喜した。朗報が入った瞬間、ロジャー・オバタ氏はホテルの部屋の椅子に崩れ落ち、満面の笑顔で「信じられない」と言った。

 私たちは、政府と合意した後、首相から発表されるまで、どんな情報も口外しないと誓った。この時点では4人の政治家が合意について知っていた。彼らが他の大臣をも説得できるよう、情報は内密に保たなければならなかった。

 

チャンスに恵まれた終結前

 1988年9月21日、補償委員会は歴史に残ることとなった発表のためオタワに召集された。  ついには絶妙なタイミングに恵まれ、チャンスがやってきた。

 終結近くには、政府がNAJCの承認なしに決着をつけようと試みたことが何度かあった。1985年1月、政府側は一方的な条件での合意を押し付けてきた。

 野党の支持を得て交渉するため、オタワでエド・ブロードベント氏と話し合っていたときのことである。補償の支払いにNDPからの援助を望んでいることを話そうと、党首が部屋に入ってきた。

 党首から合意については知っていたのかと問われ、私は否定した。もしあの時にあの場所に居なかったら、リドレス合意は成立しなかったのではないかと思う。

 そして注目したいのはメディアの存在だ。第二次世界大戦とその後に日本人が体験したことをカナダ人に伝え、広めることに貢献したのはメディアのストーリー、ドキュメンタリー、ラジオのトークショー、インタビューなどだ。私たちはメディアから支払いきれないほどの援助を受けた。彼らはNAJCに大変協力的だった。

 

歴史に残る調印式

 リドレス運動では、力と勇気、希望を与えてくれた多くの政治家と出会った。エド・ブロードベント氏、ジョン・フレイザー氏、アーニー・イプ氏、セルジオ・マーチー氏、デビッド・キルゴアー氏等の姿が思い浮かぶ。

 ブライアン・マルルーニー首相は日系カナダ人のリドレス成立に努力を惜しまなかったと私は信じる。9月22日の調印式の日、前もって公文書にサインをするためにマルルーニー首相に会ったときに、この夢を実現するのにどれだけかかったかを話した。

 マルルーニー首相は、個人補償が正しいと官庁を説得するのに時間がかかった、と答えた。官庁にはリドレス反対派が大勢いたが、交渉に絶好のチャンスに恵まれ、ひと月後には庶民院で歴史的な発表がされることになった。

 あの歴史的な出来事が、後に中国系カナダ人、ウクライナ系カナダ人、そして先住民寄宿学校の生存者に対する政府からの謝罪に影響したことを、30年後の今ここで皆さんにお話できるのはこの上ない喜びである、とミキ博士は講演を締めくくった。

 

アート・ミキ博士経歴
バンクーバー生まれ。
リドレス運動のあった1984年から1992年までの間、全カナダ日系人協会(NAJC)の会長を務める。5歳の時に家族と共にマニトバ州のサトウキビ畑に強制移動させられ、ウィニペグの高校と大学を卒業。全カナダ日系人協会の会長として補償の交渉に挑んでいた時期には小学校の教師、校長であった。リドレスが合意に至り、解決した後も、日系カナダ人コミュニティに割り当てられたカナダ政府からの補償金を管理する日系カナダ人補償財団で会長を務めた。
マニトバ日系文化協会の会長である現在も全カナダ日系人協会の顧問を務めている。 カナダ勲章、マニトバ勲章、旭日大綬章を受勲。

(取材 中村みゆき)

 

日系コミュニティアワード受賞後のアート・ミキ博士(左)と弟のロイ・ミキ博士

 

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