真澄さん(女性・バンクーバー在住・岩手県釜石市出身)

地震の直後、真澄さんは、インターネットでニュースを知った。UストリームやTwitterなどネットを駆使して多くの情報を入手したものの、停電の為に実家とは数日連絡が取れなかったという。「宮城県名取川付近の水田を津波が襲う画像は、海が見えないぶん非常に恐ろしかったです」

真澄さんは、自営業の合間を縫って、2011年4月に故郷の釜石市を訪れ、『@リアスNPO』という団体でお手伝いをした。物資の仕分けや、自宅待機者への物資配達、および団体のウェブサイト『かだって』の特派員ページを担当した。

(ウェブアドレスhttp://cadatte-kamaishi.com/?cat=175

「思い出の場所が見るも無残な状態になっているうえ、多くの方が亡くなっていました。言葉では表せないほどショックでした」
年末年始に、真澄さんは再び釜石市を訪れた。NPO団体が担当するイベントに参加し、全国各地のボランティア団体と交流した。特派員ページも引き続き担当している。 
「被害があまりにも大きいため、2~3年でどうのというものではありません。とにかく長期的支援が必要と強く感じました。地震から約1年が経ちますが、『復興』と一口にいうものの、瓦礫が少なくなった、避難所から仮設住宅に移った、仕事が見つかったなどだけでなく、笑顔で食事が出来るなどのさまざまなサポートが必要です。長期的支援のために、多くの方に関心を持ち続けてもらうこと、出来れば実際に被災地に足を運んでもらうこと。その為に、情報を発信していきたいと思います」
真澄さんは、子供たちの国際交流のお手伝いもしている。バンクーバー市内のある小学生たちは、『被災地の子供たちの為に』と、鶴を折り保護者に販売して募金を集めた。募金額3万円は真澄さんを経由して、釜石市の小学校へ寄付された。また今年の3月、真澄さんはNPOと協力し、釜石市内の子供たちをバンクーバーに招待し、留学体験をしてもらおうと計画している。
「被災地と同様、海と山に囲まれていながら、『世界一住みやすい街』であるバンクーバーでの体験を、将来、子供たちに活かしてもらいたいです」

 

ジョーさん(仮名・30代男性・福島県いわき市在住)

5年前に、1年間バンクーバーに滞在したこともあるジョーさんは、震災当時、ワーキングホリデーでオーストラリアに滞在中だった。
「バイト後に家へ帰って仮眠を取っていたら、ルームメイトに起こされて。何かな?と思ってTVを見たら、地震と津波。何だ、これは!?と、衝撃を受けました。場所が、東北地方だというし…。細かい情報までは放送されませんでしたが、あの津波を見て、実家はもう駄目かもと、思いました」
家族全員の無事を知ったのは、日付の変わった深夜1時だった。
ジョーさんは、2011年3月29日に帰郷。東京・いわき間の高速バスは回復したばかりで、大変な混雑だった。久しぶりに目にした故郷は、ひっそりとしていて、まるでゴーストタウン。電気は通っていたが、水は出ない。ジョーさんは、帰国後すぐに給水のボランティア活動に従事した。朝8時から夕方5時くらいまで浄水場で水を汲み、病院や避難所などへ運んだ。
「大変な状況でしたけど、周囲との一体感がありましたね。皆でがんばろうっていう…」
震災から1年がたとうとしているが…。
「一時はいわき市の人口が減少しましたが、今では震災前よりも増加したそうです。市内では建物の撤去・修復・新築が同時並行で行われています。屋根の修理を必要とする家屋もだいぶ減ってきたようです。僕個人としては、震災後は水を備蓄し、避難セットを用意するようになりました。家族と一緒にいることや、普通の暮らしにありがたさを感じます。友人にもたくさん支えてもらいました。人は1人では生けていけないなあ、とつくづく思います」

 

(取材 熊坂香)

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