2018年1月1日 第1号

日本が夜のとばりに包まれる頃、朝を迎えるバンクーバー。ここでの日々を綴った大河内南穂子さんの『桜と楓―その不思議な出逢い』が2017年11月に出版された。読後感想の一つに「生きる力と人生の楽しさを教えられました」とあった。大河内さんが伝えた生きる力と人生の楽しさとは何だったのだろう。

 

「今後はここスティーブストンで移住者の先輩方に恩返しできたら」と大河内南穂子さん

 

出版記念パーティー

 「大河内さんは徹底した前向きな姿勢で物事に対処し、周りの人への根源的な温かさを持ったすごい方だとあらためて感じました」編集出版を担当した後藤えむさんが同書の出版記念パーティーの席で語った。場所はバンクーバー市内のレストラン『餃子パラダイス』。祝いの和やかな会の中で、大河内さんは出席者32名一人一人にメッセージカードをプレゼント。そのカードには、地元アーティストの竹内祐紀名さんが制作した、コスモスと青空がモチーフの同書の表紙デザインが使われていた。「当地での十数名の協力者の皆さん、日本の石江さん、横濱さん、そして基本的なことを教えてくださった方の温かいご協力のおかげで、こうして形になりました。心から感謝申し上げます」と大河内さんは深々と頭を下げた。

 

『二十四の瞳』の小ツル役の少女は今

 最初の自伝的エッセイ『瞳からの旅立ち』出版から21年。「続編は?」の声に応えたい、また8歳の孫に自身の経験を伝えたいと執筆に着手したという。

 名作映画『二十四の瞳』の子役で映画界を見て、大の映画好きとなった少女は、その後、テレビの生放送でのCMレディやDJに起用された。辺りにマンションが建ち始め、生け花もこれからは洋間に合わせたフラワーアレンジメントが当たるとにらんで、1965年、米国へフラワーアレンジメント修行の旅へ。日本での生活に息苦しさを感じて、1970年、夫・訓夫さんと1歳の子どもを連れて、カナダに移住。小学校で娘が日本人だからと棒で突つかれるいじめに遭った。先生と相談後、大河内さんが小学校で取った行動が、その後の生徒たちの態度を激変させた。ここが同書の一つの見所。「ミセス・オンコンチン」と生徒たちに呼ばれながらのその活動と心意気は、その後のコミュニティ活動にもつながっている。

 

「『訓練の夫』でした」

 大河内さんは、サレー日本語学校を創設、同じくサレー市で定期的な日系女性の集まりを開始、その後展開している日系センターでのコスモス・セミナーは今年で18年となる。「いたただいたチャンスには余計なことを考えず『やってみます』と答える」のがモットーで、仕事ではサイモン・フレーザー大学日本部で日本文化を通じての日本語を10年間指導。2017年は依頼を受けた講演を日本と台湾で行った。「その行動力はどこから?」と記者が尋ねると「ヤギ座生まれのB型で、もともとお転婆な性分。そしてすぐ図に乗るんですよ」と語った。そんな大河内さんをいつも訓夫さんがこう諭していたという。「南穂子さん、口は災いの元ですよ。そんなことを言うと嫌われますよ」。その訓夫さんが2002年にがんに倒れ、同年クリスマスイブの日に他界。同書には看病生活の中で、長年聞いてみたかったことを思い切って尋ねたくだりがある。

「わたくしと結婚してどうでした?」

 病床の訓夫さんはじっと天井を見つめ、しばし考えてから答えた。

「一度も退屈しませんでした」

 訓夫さんのノートに書かれていた言葉「できるときにできることを」を見つめる大河内さん。スティーブストンのギャリーパークに植えた訓夫さんの二本の桜の記念樹、その公園へ向かう朝、広がる青空に言う。「まだまだ退屈させませんよ!」胸を張って今日も歩き出す。

 同書の購入希望者は www.naokocanada.comへ。または「大河内南穂子」でウェブ検索を。

(取材 平野香利)

 

楽しい集いになった出版記念パーティー ( 写真提供 後藤えむさん)

 

 

 

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。