2017年8月24日 第34号

 今年3月から開催している「日本国憲法のルーツについて」学ぶ3回シリーズ(バンクーバー9条の会、ピース・フィロソフィ・センター共催)。講演者は青山学院大学教授中野昌宏氏。最終回は「ハーバート・ノーマンと日本の民主化」。7月8日開催。

 ハーバート・ノーマンは日本生まれのカナダ人外交官。1945年から50年まで日本に駐在し、外交官として、研究者として、そして親日家として、日本の民主化に関わった。

 今回は彼の役割や人脈、研究者としての視点が、日本の民主化にどのように影響したかを読み解いていく。

 

ノーマンと憲法改正

 ノーマンが直接日本国憲法改正に関わったという証拠は残っていない。(日本国憲法改正については「第1回「憲法の成り立ち:日本国憲法の制定‐鈴木安蔵らの憲法草案」4月6日掲載を参照)。ただ間接的に影響を与えた可能性はある。

 理由は3つ。1鈴木安蔵との関係。日本国憲法は鈴木安蔵たちの憲法研究会が提出した憲法草案要綱(鈴木案)が原案と言われている。ノーマンは1940年に駐日公使館語学官に着任。40年から41年頃初めて鈴木に会う。当時鈴木が中心となっていた憲法史研究会にも出入りしている。

 その後、戦争中に離日していたノーマンが1945年9月に外交官として再来日。9月23日に再会(UBC所蔵資料による)。この時、憲法案作成について「がんばれ」と励ましたと言われている。鈴木たちは9月27日には日本文化人連盟発起人会を設立、これが11月5日憲法研究会となり、12月26日GHQに「鈴木案」を提出する。鈴木はノーマンの研究を手助けしていたこともある間柄。この鈴木案にノーマンとの会話が影響している可能性があるという。

 2ノーマンとマッカーサーの関係。ノーマンは1945年10月極東委員会(FEC)の一員カナダの外務省から派遣される形で連合国最高司令官(SCAP)対敵諜報部(CIS)調査分析課長に就任する。この人事の背景にはSCAP総司令部(GHQ)最高司令官マッカーサーからの要請があった。マッカーサーがノーマンを尊敬信頼していたことはよく知られており、ノーマンはマッカーサーと直接話す機会があった。憲法についても何か言及した可能性はある。ノーマンは1946年以降、GHQがFECの介入を避けるため憲法改正を急いだことを批判している。

 3「自由の指令」との関係。1945年10月4日「政治的市民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」通称「自由の指令」が発令された。この起草にノーマンが関わったとされている。これは日本が民主主義に転換する重要なポイント。これにより東久邇宮内閣(ひがしくにのみやないかく)が総辞職、幣原喜重郎内閣(しではらないかく)が誕生し、憲法改正が加速する(幣原と憲法改正は「日本国憲法に込められた思い:青山学院大学 中野昌宏教授インタビュー」5月25日号掲載を参照)。自由の指令には治安維持法撤廃、政治思想犯釈放、特高警察廃止が盛り込まれていた。

 

研究者として見る日本の民主化

 ノーマンは1909年9月1日、長野県軽井沢生まれ。父は当時地元で人望があった宣教師ダニエル・ノーマン。1927年3月にカナダに帰国するまでほとんどを日本で過ごす。

 帰国後大学に進学。1933年トロント大学、35年ケンブリッジ大学を優秀な成績で卒業、大学院へ。37年ハーバード大学修士課程修了、39年同大学博士課程修了。同年外務省に入省し日本へ。

 ケンブリッジ時代に共産主義関係団体に関わる。当時の世相としてファシズム対共産主義の構図があり、特に学生は共産主義に走る傾向があった。ノーマンも当時例外ではなかった。ハーバード大学時代には都留重人と出会い、のちに共産主義者の疑いがかかる。

 大学卒業後は外交官として戦前・戦後は日本に、その後は、カナダ、ニュージーランド、エジプトで勤務する。ノーマンが突出しているのは外交官として勤務しながら、研究者としても多くの著書を残していること、研究を手助けした大窪愿二や羽仁五郎など日本での人脈が非常に広かったこと。 日本に関する著書が多く、「日本における近代国家の成立」、「日本の兵士と農民」、「忘れられた思想家‐安藤昌益のこと」などが代表作。

 外交官としてだけではなく、歴史学者として、独自の視点で日本を捉えているのが特長。著書や研究対象から、博愛主義的な一般民衆の視点に立ったノーマンの考えが透けて見える。それは、戦後日本の民主化に、憲法草案、自由の指令、マッカーサーとの関係などに反映されているのではないかと推測できる。

 マッカーサーとの関係でいえば、外交官としてではなく個人として直接会い、東京裁判の死刑に反対を訴えている。それが東京裁判にどれほど影響したかは不明だが、ノーマンがマッカーサーに直接個人的な意見を言える立場にあったことを示すエピソードである。

 

外交官としての手腕と反共主義の波

 1950年10月にカナダに帰国後も外交官としての手腕を発揮する。51年5月、国連カナダ代表代理に就任、9月にはサンフランシスコ講和条約カナダ代表団首席随員。56年にはカナダがスエズ危機(第2次中東戦争)解決に尽力した際の功績が伝えられている。これにより当時のレスター・ピアソン外相はのちにノーベル平和賞を受賞、これをきっかけにカナダの国際的な地位が上がった。

 一方でほぼ同時期にアメリカで起こった反共主義の波に翻弄される。共産主義者の疑いをかけられ、アメリカ上院委員会がしつこく追及。カナダ政府はノーマンの潔白を確認し、アメリカに抗議した。

 一時おさまっていた反共主義が57年に再燃、再び追及対象となる。当時エジプト大使としてカイロに駐在していたノーマンは、1957年4月4日、ホテル屋上より投身自殺。47歳だった。自殺については不明な点が多く、遺書は残っているが、明確な動機も分かっていない。

 中野教授は、市民革命が日本では日本人自身の手では成功しなかったが、仮に市民革命のようなことがあったとすれば、それは戦後の憲法制定だと思う。それまでのトップダウン体制から、下から上への制限規範という日本国憲法が成立した。

 ただこれは敗戦を経てのもので、日本人が自力で獲得していないかもしれないが、それをうまく導こうとした人たちがいて、そのうちの一人にノーマンも入るだろうと思う。ノーマンの立場は、アメリカ側でもなく、日本側でもなく、彼は客観的な位置から見ることができた。しかも研究者として、利害関係よりは歴史学の知見によって思考行動していると考えられ、その見方は信頼できると思う。日本の本当の意味での民主化は誰もがその意義を理解すべきであり、ノーマンの思考や行動を学ぶことが役立つのではと思っていると締めくくった。

 

中野昌宏氏プロフィール
青山学院大学教授。総合文化政策学部。専門分野は社会思想史、社会理論、社会哲学など。現在はブリティッシュ・コロンビア大学アジア研究所客員教授として在籍。ハーバート・ノーマンを研究。

(取材 三島 直美)

 

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