ケビンさんは10歳のとき、台湾から家族と共にカナダへ移住。大学1年のときに日本語を習い始め、UBCアジア学科在籍中には京都の立命館大学に留学したこともある。
JETプログラムの国際交流員として日本へ出発したのは昨年8月。JETというと公立校で英語を教えるティーチング・アシスタントと思われがちだが、国際交流員として地元の役所などで働くポジションもある。
ケビンさんは福島県国際交流協会に勤務。仕事内容は通訳・翻訳、学校訪問、カナダの紹介、地元の日本人と外国人を対象としたイベントの企画、福島県内のJET参加者のサポートなどだ。


JET参加者の安否を確認
3月11日は、2月のニュージーランド地震のためのチャリティーイベント開催に向けて準備をしていた。その前日小さな地震があったが、今回は大きそうだと判断した上司が、全員を建物の外へ非難させた。「1-2分揺れを感じながら、向かいのビルが倒れそうなほど揺れるのを見ました」。余震はその夜も止まず、津波の映像を見て、恐ろしい災害が起こったことに怯えた。
 翌日、県内のJET参加者約150人の安否を確かめに県庁に行った。電話もインターネットも通じなかったが、このとき役に立ったのが携帯電話とフェイスブックだった。フェイスブックを通してみんなに呼びかけると、2-3日中には全員の無事を確認することが出来たのだ。

 

福島が大好きだから

一時避難した台湾から福島に戻ったのは、仕事を全うしたかったことと、福島の人が大好きになったからだ。「半年しかいなかったのですが、みなさんにとてもよくしてもらいました。福島と、ここに住む人びとが大好きなので、自分に出来ることがあれば協力したくて」
県内のJETプログラム参加者約150人のうち130人ほどは一時避難してもまた戻ってきたが、中にはアパートをそのままにして帰国してしまった人もいたため、その人たちの私物や借りていた部屋の後始末などもした。
現在は任務のほかに、JET参加者の有志と地元の大学生らとで福島支援のためのTシャツ販売や、チャリティーイベントを開催。避難所を回り、ボランティア活動を続けている。

笑顔を取り戻したくて
そのうちのひとつが津波で被害を受けた相馬市の原釜幼稚園だ。経営者のツカサさんは、地震があった翌日の3月12日に結婚式を挙げるはずだったが、津波で家も持ち物もすべてを失った。高台にある幼稚園と園児64人は無事だったものの、園児のうち27人が家を失い避難所生活。職を失った保護者も多い。
 4月から無料で幼稚園再開を決意したツカサさんを見て、ケビンさんはオンライン上でHearts for Haragamaというプロジェクトを開始。福島に住む外国人やNPO、海外からも寄付金を集めた。相馬市まではケビンさんの住む福島市から車まで約1時間ほど。外国人の友人を連れていって楽しいイベントを開いたり、幼稚園でボランティアをしたりして、子どもたちと触れ合う。
マスクをする人はほとんどいなくなったものの、多くの保護者が被爆を恐れているため、たいていの子供たちは室内で遊ぶ。学校では、放射能を浴びた土を新しい土に入れ替える作業も行われている。
「被爆すると大変だから福島へは行くなという人もいますが、つい最近今年度のJET参加者を受け入れたばかりです。みんなで協力し続ける限り、福島県はまた以前の歩みを取り戻せるはずです」と意欲に燃えている。

 

(取材 ルイーズ阿久沢)

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