「この栄誉は、皆さんのご尽力のたまもの」

周囲への感謝と自らの半生への感慨。感無量の思いがにじみ出た水田治司(みずた・はるじ)さんの挨拶に、出席した人々の胸が熱くなった。 

 

岡田総領事から在外公館長表彰を授与された水田治司(ハリー水田)さん

 

日系コミュニティへの長年の貢献を称えて

 2月3日、在バンクーバー日本国総領事館・総領事公邸で在外公館長表彰授与および祝賀式が行われた。在外公館長表彰は、日本と外国との相互理解と友好親善に寄与し、顕著な功績を積み上げてきた人々に、外務省として現地に駐留する公館長から授与される。

 水田さんは38年間にバンクーバー日本語学校ならびに日系人会館理事長に3度就任。BC州和歌山県人会でも会長役を3度務めた。こうした長年にわたる日系コミュニティへの尽力と貢献が称えられての表彰である。

バンクーバー日本語学校で心に染みた人々の温情

 水田さんは、ブリティッシュ・コロンビア州内のロッキー山中で鉄道工夫として働く日系1世の父・治三郎さんの長男として生まれた。就学期を前にカナダを離れ、5歳で母の出身地・和歌山県の三尾村へ。そして新制高等学校で機械工学を学んだ後、大阪へ出て当時の松下電器に入社。しかし学歴偏重の人事に将来を憂い、カナダでの挑戦を決意した。1955年に22歳でバンクーバーへ。だがその頃まだ日系人排斥の風が吹いており、就職はままならなかった。住まいを求めるも「日系人お断り」の門前払い。「カナダ人になろうと、日本の墓も家もすべて処分してきた」水田さんの心が揺らいだ。そんな中、ユダヤ系の人物が厚意で仕事や住まいを援助してくれたのは救いだった。そして長女がバンクーバー日本語学校に入り、日系人と交流する時間は、水田夫妻にとって、思いやりに触れるかけがえのない時間となった。

 ガスステーションの経営を始め、車の修理にも従事した水田さん。その後、カナダの産業と日本の需要を照らし合わせ、特殊な木材の輸出業に携わっていった。

日系社会の歴史の継承も積極的に

 カナダ社会で地歩を固めながらも、マイノリティとして抱える思いが、日系コミュニティへのボランティア活動の原動力になった。「自分は傲慢なところがあり、走り出したら止まらない。周囲からやりすぎと言われることもある」と本人は言うが、日頃の水田さんの姿を本間真理バンクーバー日本語学校校長は次のように語る。「理事長としての学校運営の活動時間以外にも学校に来て、日本語学校に残る歴史を後世に残そうと資料整理に当たったり、生徒たちに直接日系人の歴史を語ったりしてくださっています」。学校のバザー等の機会に見られる水田夫妻の二人三脚の姿も印象的だという。

今は亡き人々への思いにも触れて

 総領事公邸で岡田誠司在バンクーバー日本国総領事から表彰状を授与された水田さんは、約20人の出席者を前に挨拶を行った。「バンクーバー日本語学校は私にとって、外での悔しさを忘れ、やすらぎを覚える場所でありました」と振り返り、感謝の意を伝えながら「日本の美しい自然と豊かな文化の中で育ってこられた先生方に、日本語を通してカナダにおける日本文化の継承と啓蒙を、今後もぜひお願いしたく思います」と語った。そして自身同様に戦後カナダに帰り、カナダ社会で生き抜いた人々、今は大半が他界した「日系帰加二世たち」への語り尽くせぬ思いに触れ、声を詰まらせた。最後に伝えたのは家族や孫たちへ感謝と期待の思いだ。その後の祝賀会は「父は家庭を大事にするやさしい人」と語る長女のエドナ・パークさん、水田さんを支えてきた妻の明美さんをはじめとする家族や、日本語学校の人々との楽しい交流のひとときとなった。

(取材 平野 香利)

 

半生を振り返りつつバンクーバー日本語学校の人々や家族に感謝の言葉を伝えた

水田さんの表彰を祝いに集まった人々

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