2018年11月8日 第45号

 終身刑のないカナダで古川夏好さん殺人犯シュナイダーの判決が出た。セカンドディグリーで「最低10年から25年の刑」だという。(注:11月2日、裁判官が最終判決でシュナイダー被告に、14年間は仮釈放が認められない終身刑を言い渡しています。)

 

 その日、遺体発見場所、デイビーストリートのGabrielaマンションの庭で法要が行われた。集合時間より早めに老婆は到着。すると驚いたことに、検察官として30年の経歴を持つジョディーともう一人カナダ側警察の方、首席領事と日本の警察の方(領事館関係)、若い方達(見ず知らずの夏好ちゃんの死を悼んできたと言っていた)、盛和会の浜野さんと吉武さんは風邪をひきながらもいらしていた。そして、さらにうれしいことは遺体発見現場の荒れた花壇がきれいになり、シクラメンの花がいっぱいに植えられ、中央には領事館はじめそれぞれが持ち寄った美しい花束が置かれていた。その花壇を清掃し、花を植えた人が、その辺に置かれてあった、この2年間、見知らぬ人たちからのお悔みカード、かわいらしい縫いぐるみや手紙、また端に貼られていた彼女の写真をボール紙に綺麗に張った飾り用写真など、全部集めてプラスチックの箱に入れ遺族に渡してくれた。

 カードにはたどたどしい日本語で「こがわさん、僕の町でこんなことやってごめんなさい。あなたが見つかった時僕は怖くて…。日本人の友達の為に、僕留学中の日本人の友達を守ります。お願い力を貸して下さい。フレッドジョージ デヴィット サン」頼りない日本語で一生懸命書いた事が、よーくわかる。また別に英語で、「ナツミさん、私は貴方に会った事はありません。でもチラシで貴方が行方不明になったことを知りました。そして、貴方のご無事を願っていました。しかし、今私は貴方の無法な取り扱われ方を知り、怒りを覚えます。貴方はもっと良い状態でこの世界で生きられたはずです。貴方が今安らかな眠りにつかれている事を祈ります。」このように沢山の心のこもったカードや手紙が遺体発見現場に置かれてありました。

 思えば2年前、母恵美子さんが不安と怒りと悲しみを胸に、バンクーバー空港に初めて立った時、彼女にとって心中、周りはすべて敵に思えていたのです。恐ろしいことにそんな人の不幸をネタに金儲けを考え接近してきた人もいました。幸い、その彼女を最初に出迎えてくれたのは、在バンクーバー日本国総領事館の方であり、その後、時差がある中、夜中でも捜索中は情報を送り続け、裁判にも必ず領事館スタッフは出席してくれていたのです。その日、空港から恵美子さんは夏好ちゃんの大学の先輩の小茂田氏が用意したホテルに、領事館からの車で無事到着。

 この2年間、恵美子さんに犯人と疑われていた夏好ちゃんの仲良しJAYは、行方不明時にモントリオールから来てくれた自社の仲間の助けを借り、夜中にビラをすり、朝はビラ配りと頑張り通した。同じくビラ配りから必死であらゆる面で行方を捜していたユウスケ、彼もまた留学エージェントであったために、恵美子さんには恨みの対象になっていた。そして、そこになんとか全く見知らぬ人だが、金儲けを考えた2人組が偽り通報を警察にまで行い、事を複雑にしていた。恵美子さんは当時を振り返って老婆にそうぐちった。

 この9月、10月と最終裁判のために来加した恵美子さんは、今は心ある大勢の人たちに助けられ、いたわられ、励まされている。その思いやり溢れる人々の反応に驚きながら、このバンクーバーという町に感謝せずにはいられないとつぶやく。だから、「夏好が大好きなバンクーバー」なのだ。  

 そして、老婆がふっと思い出したのは、夏好ちゃんは来加直前、スイスに駐在中の長兄を訪ねている。その長兄の話では、彼女とマーケットへ買い物に行ったら、そこで、夏好ちゃんはビールを買って近くにいたホームレスにあげ、一緒に話しながら自分もビールを飲んでいたと言う。

 ここからは、まったくこの老婆の推察だが、夏好ちゃんは、話す人も少ないこの老婆をかわいそうで気の毒と思い、遠いバーナビーからリッチモンドまで、時々訪ねてくれたのだと思う。そして、ひょっとすると今回、彼女の犯人へのかかわりも「シュナイダーの更生に協力したい」と彼女なりに考え、近付いたのではないだろうか? 特にお酒を買ってあげたと聞いた時、老婆はふっとそう思ったのだ。

 思えば、八甲田山の自然いっぱいの山中で幼少から村人たちと「愛」いっぱいで成長し、その「愛」を振りまく夏好ちゃんだったから…。  

 最終裁判の結果を待って10月20日、真夜中に北京経由で日本へ帰る恵美子さんを見送ったのは、最初彼女が犯人と疑った夏好ちゃんのボーイフレンドJAY、また、全くのストレンジャーでありながら、同じ青森出身という事でビラ配りのボランティアに参加、夏好ちゃん亡き後は恵美子さんの車の運転から諸事相談役となった朋子さんだった。裁判に付き添ってくれたハイディーさんは遺体発見現場へ49日の法要には1人で行き、仏教教会の○○僧師と2人で法要を雨降る中で行ったと聞く。たった2人の法要だった。また、パシフィック・センターモールのセキュリティを長年やっているクリスは1カ月の休暇を取って最終裁判に連日出席、カナダで諸事不慣れな恵美子さんを助けていた。また、領事館からも休みなく誰かが出席し、最後の法要には首席領事も最初から最後までお見受けした。

 陪審員の方たちが、シュナイダーの弁護士とシュナイダー自身の保身のための夏好ちゃんに対する嘘と暴言を崩す数々の証人からの証言を、正確に判断していたと恵美子さんは言っていた。そうした人々から得た「良心」と「思いやり」だろうか、心から彼女は感謝し、笑顔で帰国していった。そして、恵美子さんから帰国と同時に、早速、老婆はこんな手紙をうけとった。

 

澄子様

 無事に日本に着きました。バンクーバー滞在中は大変お世話になりました。

 また、夏好の3回忌にはお身体の回復がまだなのにも関わらず、遠くからおいで下さいまして、ありがとうございました。そして夜遅くの空港でのお見送りもありがとうございました。その日は一日中活動されてたのでお疲れになったのではないですか?大丈夫でしょうか? 

 裁判が始まってからは思うようにリッチモンドへ行くことができなくなり、お別れができないままに帰国することになりそうと気になっていましたので、空港でご一緒できて嬉しかったです。

(中省略)

 私が澄子さんを知ることになったのは、「バンクーバー新報」の澄子さんのエッセイに夏好のことが書かれていると日大OB会バンクーバー支部会長さんの久保さんと捜索活動で友人になった同郷の朋子さんから教えていただいた事から始まりました。

 澄子さんのお宅に何度かおじゃましていたという、その当時の夏好の様子を知りたいという願いが不思議なご縁でとんとん拍子でつながり、澄子さんとお会いできることになったのには正直驚きました。それが2016年12月のことでしたね。裁判が始まるというので出かけたバンクーバーでの事でした。裁判の合間に警察、検事、ビクティムサービスとの面談、その他に現地の夏好を応援してくださっていた方々との情報交換。毎日が忙しく、たった1日だけの時間があいていたそのタイミングが澄子さんのご都合とぴったりだったというのにも何かしらのご縁を感じたものです。それからの2年間は澄子さんにはずっと心の支えになっていただいてきました。いろいろな角度から夏好と夏好を取り巻く人々に焦点をあててくださいました。

 そのおかげで私は今日まで犯人を憎むことよりもいつも人の優しさを感じ続けながらこの判決の時を待つことができたのです。苦しみ続けながら判決が出るまでの長すぎる2年間になるはずだったのが、私の人生において最大の学びの機会になったのは言うまでもありません。

 バンクーバー滞在の時にはいつも、日大OB会の会食会にお招きいただいていますが、夏好が会員としてこれから活動していこうとしていた会のひとつでした。こちらの会でも当時の夏好のことを教えていただいています。会長の久保さんからは夏好が1回目の会合の時に将来のはっきりした夢を語っていたことに感心していたとおっしゃっていただいていました。

(中省略)

 私は具体的な夢は夏好から聞いていませんでしたが、将来のためにキャリアを積んでくるからねと言っていたのはこのことだったのかと久保さんの言葉から初めて知りました。そういえば、時間を無駄にすることをもったいなく思う人で、必ず目的を持って何事にも取り組んでいました。私の家へ帰って来ると、時間がいくらあっても足りないといつも笑って話していたのを思い出します。

 この度の滞在は到着当初から澄子さんとゆっくりお話しできましたので気持ちが安らぎ、落ち着いて裁判を迎えることができました。結果も陪審員の決議がどうなるかと大変心配ではありましたが思い通りになったことでひとまずの区切りにはなり、いくらかでも夏好の無念が晴れたかと思います。

 シュナイダーが証言した保身のための偽りの話に惑わされることがなく陪審員のみなさんが夏好を正しく判断してくださったのだと思っています。

 今日は羽田に着くなり小茂田さんとお会いし、裁判の結果報告をしてきました。判決が出たことでこれを節目にこれからは気持ちを新たに再スタートしていこうと心に決めています。澄子さんにサンドラさん(手相占い師)の所へ連れていっていただいたことも生き方を切り替えるのにとてもいい機会になっています。ありがとうございました。

惠美子

 

許 澄子

 

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。