2018年1月1日 第1号
イラスト共に片桐 貞夫
「帰ったのよチヨさん。帰ってきたのよ」
口の中だけで声を上げた。
丘陵に突き出る丸い山は「釜伏山」に違いない。青田チヨが一言もらしただけの山名ではあるが、美重子にそれが当然のことのように分かったのであった。
「チヨさん、もう、どこにも行っちゃーいけないわ。こんなきれいなふるさとを捨てちゃーいけないわ」
カナダの雄大な景色を見慣れている美重子ではあったが美しいと思った。この、肌をやさしくなでるような山河の香りに自らのアイデンティティのぬくもりを感じたのであった。
美重子には「ふるさと」というものがない。横浜にある幼い頃の思い出は、コンクリートと自動車の跳梁で跡形もなくなっていた。
「よかった、チヨさんと一緒に来れて…」
カナダの無縁墓地に埋められようとしたチヨの遺灰を引き取ったこと。年が変わってしまったが、それをその故郷に持って来れたことが嬉しかった。美重子は死辺の青田チヨが「もうすぐ、ふるさとに帰る」とつぶやいた時、遺灰を寄居に戻そうと決心したのであった。
山田明子の家は大きくはないが山荘風にしゃれていた。荒川の岸辺から遠くないこの辺りは、実用をかねた別荘地なのであろう、付近には同様な趣旨を凝らした家屋が木立の合間に見え隠れしていた。
リビングからの景観も美重子の心をくすぐるものであった。美重子は、山田の夫への挨拶を済ますとすぐ、その景色に見とれた。
窓の下方を荒川が流れ、淡い緑の丘陵が山桜のピンクを混じえて幾重にも折り重なっている。なんの木だろう紫の花が、新緑の緑にアクセントをつけて春の到来を誇示していた。横浜の街なかで育った美重子は、はじめて日本の山河の美しさというものを思い知ったような気がしたのだ。
一つだけ気になるものがあった。
すぐ前に、小さくはあるが祠がある。川に向いているので後ろ向きではあるが、窓からの景観の一部に祠の屋根が入り込んでいた。
「あの祠ずいぶんと変わった所にありますね」
美重子が言った。
「いえ違うんですよ不破さん。この家が建ったんで、祠さんの方が場違いになってしまったんです」
美重子は、山田の夫が祠に「さん」をつけたのを面白く思った。
「そうですね。うっかりしてました」
祠は古い。ずっと昔から動かない。
五年前、その風光に魅せられた山田夫婦は、リゾート分譲地を買うとこの家を建てた。それが、この祠のすぐうしろであったのだ。
「この前の道も新しくできたものです」
「とすると、あの祠は昔、村から離れてずいぶんと寂しいところにあったんですね」
応答する美重子の脳裏を青田チヨが占領しだした。
…チヨさんがいた時も、あの祠はあったんだわ。チヨさんも見たかも知れないんだわ…。
美重子は、山田夫婦に頼んでチヨの遺灰壺を川が見える窓の所に置かして貰った。それから電話帳を借りて「青田」という姓を探してみた。しかし寄居には青田は一つもなかった。
…青田家はどこに行ってしまったんだろう…。
「アオタ・チヨ」以外の情報がない。戸籍も住所も分からなかった。しかも七十年も前のことである。
寄居滞在中の三日のうちに灰を埋める場所を決めなければならない。むろん青田チヨの墓地はない。しかし美重子はチヨに最もふさわしい場所を探そうと思っていた。その為に美重子はカナダから来たのである。
山田夫婦の歓迎振りは、程度を越していた。
親愛な一人娘が数年振りに帰郷でもしたかのように、珍味、銘酒でもてなし温泉に入れた。名所のあちこちに案内した。美重子は、山田の仕事の邪魔になるまいと、気ままな近郊の散策を想ってきたのであるが夫婦は終日、美重子を一人にしなかった。
美重子は青田チヨの霊を感じた。山田明子がチヨの代わりにもてなしてくれているような気になっていた。
(続く)