2017年12月21日 第51号
イラスト共に片桐 貞夫
「杉山弘幸」とは写真の男の名前である。
チヨは男を信じ、従っていくしか仕方がなかった。
汽車に乗り、山あいの雨道を馬車に揺られた。二日かかってたどり着いたところは人里離れた山の奥、殺伐とした樹林の空間にテントと簡易の板張りの小屋だけが並んでいた。
チヨは、その内の一つに入れられるや同行した男に強姦された。
女衒であった。杉山弘幸などという写真の青年は存在せず、最初から仕組まれていたからくりであったのだ。
泣きじゃくっているうちに日が暮れた。男の群が帰ってきた。
それは、ブリティシュ・コロンビア州の奥地に散らばる製材基地の一つ、ノース・ベンドの山奥で働く男たちの飯場であった。五、六十人の日本人と中国人だけが三ヶ月を一期として寝起きしていたのであった。
それからのチヨの人生は「奴隷」でない。「売春」などというなま易しいものでもなかった。昼間は飯場の雑用をさせられ、夜は代わる代わる男たちの肉欲のはけ口になったのであった。
以後、山の中の製材所や鮭漁業の海上基地を転々と売り飛ばされ、無数の男たちを迎え入れなければならなかったチヨの肉体ではあったが、幸か不幸か大した病気はしなかった。通例の女たちのように若くして命を落とすことなくして毎日の極限に耐えたのだ。身体に二つの刺青を彫られ、逃げ出すこともできない。残る手段は自殺であったが、いずれも未遂に終わったのであった。
四十を越しても、女ひでりの僻地では性囚として酷使され、その生活から自由の身になったのは五十近くなってからであった。使い古された道具が廃棄されたのである。
しかし、チヨは一人で生きていく方法を知らない。町におりても知人の一人もいなかった。
ふたたび山に戻った。インディアン部落に入り込んだ。チヨは片隅の廃屋で雨つゆをしのぎ、残飯を食らって生きてきたのであった。
五、ふるさとの山河
埼玉の寄居で文筆活動を続ける山田明子からなんども便りが来た。
不破美重子が、その都度、長い返書を書いたのは、山田から送られてきたノンフィクション作品を読んで感動しただけではなかった。ひとり胸に秘めてきた青田チヨの生涯が、山田の著作に描かれる悲惨な女たちのものに思えた。どうしても、チヨの霊が山田明子を引き会わしたように感じられたからであった。
美重子は遅くならないうちに寄居に行かねばならないことを思っていた。チヨの「遺灰」を保管していたからだ。いや、行きたかった。チヨの故郷を見たかった。
青田チヨがどんなところで生まれ育ち、なにを見て恋を語ったのか。「千本松」の林とはどこにあるのか。山田明子もまた、便りのたびに寄居に訪ねてくるよう促してくれた。
やっと生活の区切りができ、美重子が日本に向かったのは翌年の四月早々であった。
親族の散らばる東京、横浜で三年振りの雑用を済ませた美重子は東武東上線の電車に乗った。
寄居の駅では山田明子が待っていた。
互いの挨拶が終わると山田は春の陽光に目を細め、タクシー乗り場の方に歩き出した。
美重子が聞いた。
「歩いては行けませんの?」
美重子は無性に歩きたかった。埼玉の都心から遠ざかり丘陵が増して緑が多い。かつて青田チヨが歩いただろうその故郷の土を少しでも肌で感じたいと思ったのだ。
「歩いても三十分ぐらいです。天気が良いから歩きましょうか」
山田が同意した。
寄居は変哲もないこぢんまりした町であったが、感動は荒川にかかる橋の上に立ったときにやってきた。美重子は思わず橋の中途で立ち止まった。何ともいいようのない感情に襲われたのだ。
荒川の清流が滔々と流れている。対岸にそそり立つ奇岩が雨上がりの新緑で光り、その背後からゆるやかな丘陵が重畳と高くなって釜を伏せたような山がのっかっている。遥かかなたに秩父の連山が薄くやさしく霞んでいた。
美重子は、先を行く山田に声をかけることも忘れてたたずんだ。旅行バッグを降ろした。そして、青田チヨの遺灰壺を出して胸にかかえた。
(続く)