2017年11月16日 第46号
イラスト共に片桐 貞夫
山田は思い出したように手元の紙片に目を落とした。そして「かるいざわ」の係員にしていたような新作に関する取材に戻った。明治から太平洋戦争が始まるまでの間に、六万という日本女性がたぶらかされて海を渡り、肉体を売って北米における日系ビジネスマンの事実上の財を築いたという裏舞台史を山田は掘り探ってきたのだった。
不破美重子は、山田の質問の狭間にうごめく悲惨な女たちの影におののきながら、日系人として知っている限りのことを答えた。
壁にかかる古い時計が時をきざみ、何度か時報を告げて幾人もの人が出入りした。
午後の二時を過ぎる時刻になっていた。
山田がペンを置いて微笑んだ。
「どうもありがとうございました。不破さんは新移住者なのによくご存知ですのね」
「とんでもありません。私が知っているのはうわべだけのことだっていうことがよく分かりました」
一日系人として答えてきた美重子ではあるが山田明子の狙おうとするものが判る。甘い言葉に騙されて酷虐な人生を強いられた哀れな女たちの存在が見えてきたのだ。
「いえいえ、失礼ですが感心しました」
山田がふたたび言った。
「わたし、明治とか大正の昔に、こんな所で日本人が葛藤していたかと思うと興味をそそられ、何冊かの本を読んだだけなんです」
「ですが、年号とか数字が正確で…たすかりましたわ、ほんとうに」
「恥ずかしいです。肝心なことをなにも知らないで」
「人は、自分に都合の悪いことを書きませんからね。人間の歴史ほど奇怪なものはありません。とくに文字というものができてからの歴史は」
「よくわかりました」
美重子は謝罪でもするかのように頭を下げた。「人間」というものがこれほどに虚飾にうわ塗られたものであるということを思い知ったのであった。
「あの…」
山田がペンを置くや美重子が顔を変えて言った。
「どこか、取材に行かれたいところがあるんじゃないんですか。車がありますので案内いたしましょうか」
死枕の老婆が半目を開け、なんどもつぶやいた寄居。とうとう帰ることならなかったふるさとからやって来たこの女流作家の出現は偶然と思えない。しかも醜業を強いられては消えていった女たちの秘史を書き暴こうとしている。美重子は少しでも力にならなければならない宿命のようなものを感じていた。
「どうぞ案内させて下さい。遠慮なさらないで下さい」
「ありがとうございます」
山田はなんども頭を下げたあと、腹を据えたよう言った。
「それではお言葉にあまえ、ぜひお願いいたします」
まず山田は、郊外を流れるフレイザー川に浮かぶ島の一つを見たいと言った。かつて多くの日系漁民が住んだというドン島である。
「行きましょう。二、三十分で行けると思います」
外に出ると初夏の日差しが街路樹の合間に光線となって降っている。日陰に停まっていた車ではあったが、車内は、ムッとするほど暑くなっていた。
「おいくつぐらいの方ですか、寄居から来た人」
車が走りだすや山田明子が訊いた。
不破美重子は返答の代わりにハンドルを切った。大げさに振り返って車線を変える動作をした。
死んだ老婆のことは他言したくない。夫の孝一だけに老婆の人生を語ってきかせ、口から出すことによって老婆最後の十日間を一つ一つ思い出してみようと思っていた。そのためにボートに揺られ夫の釣りに同伴したいと思ったのだった。
しかし、訊かれた問いを無視はできない。
「…じ、実は三日前に亡くなったんです」
「え… 亡くなった?」
山田が運転する美重子を見た。
「ええ、七日の日です」
「私がカナダに来た日だわ。たなばたの日ね」
「九十は越してたと思います。これといった病気はなかったんですが十日ぐらい前から食べ物が喉を通らなくなって…身寄りがなくって可哀相でしたわ」
「結婚されなかったのかしら」
「しなかったようです」
「いつごろカナダに来られたんですか」
「若い頃としか言いませんでした」
「お名前は」