イラスト共に片桐 貞夫

 

 シモンズが歩いている。戸を押して薄暗くなっている外に出た。サルーンの喧噪に代わって海がごうごうと鳴っている。デッドマン岬の潮騒がこんな方にまで響いてくるのであった。

 連絡船が着いて一時間にもなろうというのに、まだ人が歩いている。まばらな建造物の屋根越しに、連絡船プリンセス・ルイーズ号が細い煙を吐いて泊まっていた。

 シモンズは雨具の襟を立てると板敷き歩道を降りた。何十羽ものカモメが群をなして飛んでいる。群をなしていながらギャーギャーと入り乱れては狂騒としていた。

 シモンズはくるぶしまで埋まる泥道を歩いて馬にまたがった。そして手綱を船着き場の方向に向けた。

 四頭だての乗り合い馬車が来た。

 シモンズは自らの馬を道脇に寄せた。馬車の中は見知らぬ男たちでいっぱいであった。

 折からの不況で、バンクーバーをはじめニュー・ウエストミンスターやビクトリヤ等の都市で仕事を失った男たちが、最終的にたどり着くのがこのタッパーランドの石炭坑の中であった。ほとんどの顔が髭もじゃで、ホームレスに近い格好をしている。入獄を前にした囚人のような顔つきばかりであった。

 第一次大戦直前、ヨーロッパの諸国がまっしぐらに戦争を目指しているこの時期、石炭さえ掘っていればわずかながらも金になる。男たちは女房子供をその地に残し、すぐ迎えに来るからと別れを告げてきたのに違いなかった。

 

「どうしたんです、キャプテン」

 シモンズの背中で声がした。

 ビヤだるのような髭面が、馬具屋の軒下から見上げている。シモンズはこの男に馬具の修理をたのんだことがあった。

「また女でも逃げたんですかい。…ヒヒヒ」

 馬具屋は、先月起こった若い女の逃亡事件を言っている。タッパーランドの売春窟から失踪した二人の姉妹が船に乗ろうと、この浜辺に潜んでいた事件があったのだ。

 カモメの飛びようが普通でない。一羽一羽がきりもみをし、海面近くまで降下しては急上昇を繰り返している。

「今度は誰です? ヒヒヒ…どこのどいつを探してるんです」

 馬具屋は、シモンズが部下のパターソンと話していたのを見ていたに違いない。それとも、警察隊を指揮してこの前を通るのを見ていたか。

 カモメの幾羽かはシモンズの方にまで飛んでくる。一羽が目の前を急旋回してギャーと啼いた。

 思わずシモンズが首をすくめた。

「ホワッタ・ヘル(どうなってんだ)?」

「大潮ですよ」

 馬具屋は視線を変えずに言った。

「俺はカモメのことを言ってるんだ」

「ですから大潮だからですよ。鳥は知ってんです」

「関係あるのか」

「あるんでしょう。大潮の時はいつもこうなんですから…。ところでキャプテン、おしえてくださいよなにがあったか。退屈で、もう少しで死ぬところだったんですから」

「……」

 シモンズは答えもせずに海を見た。沖の方でも別のカモメの群が騒いでいる。その遥か向こうにデッドマンの岬が暮色のもやに沈もうとしていた。

「あんだけのオフィサー(警察官)が非常線を張ったとなると女じゃねえな。殺しか強盗の極悪人だな」

 馬具屋の言うことを無視してシモンズが時計を見た。それから手綱をゆるめて馬を行かせようとした。

 女が来たのはその時であった。

 「女」は、頭から黒いスカーフのようなものを巻いて口元まで覆っている。かなりの雨だというのに傘をささず、急ぎもせずに歩いてきた。着ているコートは肩が垂れ、色の褪せた古めかしいものだが若い娘のようでもある。女はシモンズの存在を認めないかのようにすぐそばを、一瞥もしないで通り過ぎていった。

「ここの者か」

 シモンズが女の後ろ姿を見ながら馬具屋に訊いた。ターミナル・タウンの住人かと訊いたのだ。

 馬具屋が首を振った。

「いんや。船で着いたんですよ」

(続く)

 

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